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成田三里塚記念公園 [天皇関係雑感]

DSCN1604.jpg
気分転換に、前から行きたかった成田三里塚まで行ってきた。
といっても、別に闘争に参加しようとかそういう意味では全くない。
目当ては、「三里塚御料牧場記念館」である。

成田市の三里塚は、明治以来、宮内省の牧場があったところである。
元々は殖産興業などの関係で、品種改良や酪農家の養成なども行っていた施設であり、初のクラシック三冠馬として知られるセントライトの父ダイオライトは、この下総御料牧場が所有していた馬であった。

しかし、新空港建設が各地の住民の反対運動で難航していた中で、国有地である御料牧場が狙いを付けられ、そしてここに成田空港が建設されることになった。
そして、御料牧場は、現在の那須高根沢へと移転して、現在に至っている。

今回行った「三里塚記念公園」は、この三里塚御料牧場の門と貴賓館の部分が記念として保存されている所である。
そこの、牧場記念館が今回のめあての場所であった。

記念館は成田市が管轄しているこぢんまりとした施設で、訪れる人もほとんどなさそうな所であった。
管理をしている人が、誰も来ないからヒマなのか、付きっきりで展示物を説明してくれ、初めて知ったことも結構あってなかなか面白かった。

その中で一番興味深かったのが、成田空港と牧場の位置関係である。
sanriduka02.jpg
クリックすると大きい地図が出ます。

この地図は、記念館にあった説明用のボードを写真で写させてもらったものである。
色分けは
・黄・・・1918年(大正7年)ごろの御料牧場
・青・・・1927年(昭和2年)ごろの御料牧場
・赤・・・1947年(昭和22年)ごろの御料牧場(空港に売り払われたときの御料牧場)
・緑・・・現在の成田空港
となっている。

これを見ると一目瞭然なのだが、要するに「御料牧場」の跡地が明らかに狙われていることがわかる。
御料牧場は昔は広大な敷地だったのだが、様々な理由で民間に下賜されて、開拓農民が切り開いていた。
三里塚闘争がなぜあそこまで激しくなったのかの一因として、「天皇陛下から下賜された土地」に住む農民たちの思いがあるということはよく知られていることである。
でも、国は「先祖代々住んでいる土着の農民ではなく、開拓民だから土地への執着は小さいだろう」とたかをくくって、ここに空港の建設をもくろんだのである。
前の国土交通大臣が「ごね得」とか何とか言って成田闘争を批判していたのは、本当にこの人が「歴史を知らないエリート官僚」の典型であることを示しており、まさにこういう何も知らずに批判するような人達が成田闘争を長引かせたのだということを証明している。

私も事実としては知ってはいたが、あらためて図面として見せられると、なるほどなあと思わざるを得なかった。
ちなみに、最後に買い取られた赤い部分の御料牧場の敷地は実は半分ぐらいしか空港には使われていない。
その残りの部分の多くは、代替地として用地買収に応じた人達に割り振られたのである。
御料牧場記念館の近くが妙に区画整理ができているなあと地図を見て思っていたのだが、どうやらそういう理由らしい。

また成田の前の候補地であった富里も、この地図を見るとやはり御料牧場の跡地である(三里塚の南の方)。
こう見ると、国の政策がどこを狙って行っていたのかが露骨に現れてくる。
道場親信さんの論文などでも書かれているけど、戦後の大規模開発の代表的なものが、開拓農民の住んでいる場所を狙ったものである(例:むつ小川原原発)というのは、こういうことからもわかるように思う。

さて話を記念館に戻すと、実際に記念館自体はそれほどすごいものが展示されているというわけではなく、こういった地図類や見せられたビデオに映された牧場の映像などが一番興味深かった。

あと、なぜだか、1971,75年に行われた昭和天皇夫妻の訪欧・訪米時に使われた日航機の天皇皇后用のシートの現物が展示されていた。
館員の話だと、昔、芝山町(成田の隣町)が日本航空からもらったらしいんだが、手に負えなくて記念館に運びこまれてそのままになっているらしい。所有権もいまだによくわからんそうだ。
西陣織でできていて、一席3000万らしい!ベッドもあった。本当に何でこんな所にという感じだった。

外に出ると、飛行機の飛び立つ音が定期的にし、空港反対運動の拡声車が一台通り過ぎていった。
ありきたりな感想だが、高度成長とは何だったのかとか色々と考えさせられた場所であった。
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「愛子さま」の教育の困難さ [天皇関係雑感]

先週の『週刊新潮』(7月10日号)の「「異様な厳戒態勢」が続く「愛子さま」御入学3カ月」を初めとして、ここしばらく、学習院初等科一年に入学した愛子内親王の周囲の話題が週刊誌をにぎあわせている。
いわゆる「雅子さま叩き」の一環であると思うけど、最近の保守系のメディアは雅子妃を目の敵にしているようである。
かつてケネス・ルオフだったかが、保守系の論者は天皇制を批判する論者を不愉快であるとして徹底攻撃するが、その一方で自分たちが天皇家の個人を攻撃する権利は担保するという二面性を持っているという話を書いていたが、まさにその通りだなと思う。
天皇家の尊厳を守ると称するが、その尊厳を傷つけていることには鈍感であるように思う。

さて、その愛子内親王であるが、学習院の中で孤立気味だとか、警備が異様なほど厳しくて生徒の親から反発が来ているとか、色々と問題を抱えているようである。
もっとも、こういった問題は、美智子妃の子育ての時にも起きていた問題であり、別に目新しいものではない。
ただ、前回との大きな違いは、「女性皇族の場合、皇位につくことはないので、男性とは別の教育をする必要があるのだが、愛子内親王が天皇になる可能性がまだありうる」ということと、「母親の子育てに対する意識の問題」とがあるように思う。

まず、後者の方から考えてみると、美智子妃の場合、「ナルちゃん憲法」などに見られるように、子供の教育に対して異様なまでの熱心さを示していた。
これは、失敗できないことのプレッシャーがあったためだという話は以前に書いたことがある。→「「ナルちゃん憲法」に見る美智子妃の苦悩」
そして、現皇太子や秋篠宮は厳しく育てられていた。特に、悪いことをした際には必ず周りは怒るようにという指示を出していたことはよく知られている。
また、女性は紀宮(黒田清子さん)だけであり、いずれは皇族から降りることが判っていたので、ある程度一般社会に適合できるように育てようとしたと言われている。
美智子妃は、原理原則主義者的な所があるが、逆にそれだけ方針が徹底していたこともあり、周囲もやりやすかったのではないかと思う。

では、今の雅子妃であるが、娘に対してどこまで教育方針を持つことが可能であるのだろうか。
少なくとも、今までであれば、女性はいずれ皇族を離れる可能性が高いので、民間にいた自分の経験則で教育すれば良いところもあったはずである。
でも、皇室典範の改正によっては、天皇になる可能性(または婿を取って皇族に残る可能性)がありうるという、微妙な立場に立たされている。
つまり「どのように教育したらよいか」というのが、そもそも難しい立場である。

そして、その「皇族としてのあり方」に揺れる雅子妃が、「皇族としてのあり方」を愛子内親王に教えることができるのだろうか。
もちろん、現在の子育ては女性だけがするものではないけど、東宮御所から出られない雅子妃と愛子内親王は必然的に交流が多くなることは間違いないと思う。
その雅子妃が、今の状態である限り、愛子内親王に対する教育方針がまともに考えられているようには思えない。
現在のような「異様な警備」などは、学習院や宮内庁の「事なかれ主義」(何かあったときに責任を取りたくない)であると思うけど、それをせざるをえなくなっているのは、皇太子夫妻の教育方針が明確でないからなのではないだろうか。

皇族であるということは、自由がないということとイコールである。
だからこそ、子供の頃からある種の「諦念」を受け入れるように教育されるという話は以前に書いたことがある。→「皇位継承者の憂鬱」
愛子内親王の今後が正直心配でならない。

もちろん、こういった議論が各所でされること自体、同情の念を禁じ得ないが、残念ながら天皇は「国民統合の象徴」である以上、その子育てに様々な関心が向けられることはやむを得ないだろう。
おそらく、この問題には答えがない。でも、いずれにしろ、子供が大人の監視下に常に置かれている状況は、教育上良くないとは思うのだが・・・。
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高円宮承子女王、落第する。 [天皇関係雑感]

今週の『女性自身』(7月8日号)の記事によると、英国の名門、エディンバラ大学に留学していた高円宮承子女王は、どうやら「卒業」できずに帰国することになったようである。

高円宮承子女王と言えば、昨年ブログではっちゃけたことを書きまくっていたことがバレて世間を騒がせたお姫様である。
私もその時には、分析とは言えないけどブログでコメントを書いた。

『女性自身』のその対象の記事「高円宮承子さま・英国エディンバラ大学を<落第>していた!」を立ち読みしてみたのだが、どうやら『女性自身』の記者によるスクープのようである。
その記事によれば、承子女王は学習院女子大学からエディンバラ大学へ留学。その後、学習院を退学してエディンバラで卒業を目指した。そして、約4年間留学していたが、この7月1日に帰国することになった。
専攻は犯罪学だったらしい。
でも、普通、卒業した人の場合は7月初めに卒業式などの一連のセレモニーがあるらしい。
どうも、『女性自身』の記者はその辺りでおかしいと気づいたみたいだ。それで大学に問い合わせたところ、「卒業者名簿には載っていない」との回答を得たとのことだ。

これを読んで思ったことは、「やはり英国の名門大学はさすがだな」と。
他国の皇族だろうが、単位は厳密に判断する。まさに「ノーブレス・オブリージュ」(貴族の責務)を体現している。
つまり、「特権階級に属する者は、それにふさわしい能力を身につける義務がある」ということだ。
そして、おそらくエディンバラ大学は、承子女王にそれを認めなかったということなんだろう。
普通は外交関係などを考えて、そのあたりは手心を加えそうなもんだが。

学習院ならば、そのあたりは手心を加えるんだろうから、せめて卒業してから行けば良かったのにと思う。
学習院の都市伝説で、某宮様が学生の時に、どのような成績であろうとも単位を出さなくてはいけなかったので、同じ授業を履修する学生のほとんどが単位を落とさなかったという話もあるぐらいだし。
まあ、「学習院女子大学中退」という学歴は、今の天皇とほぼ同じだといえば同じなんだが(英国のエリザベス女王の戴冠式出席等で単位が足りなくて、学習院大学を退学して聴講生になった)。
それにしても、また「伝説」を作ってしまったんだなあ。このお姫様は。

しかし、これからどうするんだろう。国際交流とかに取り組むと言っているが、どうしても様々なイメージがつきまとうわな。
それを払拭できるまで、ひたすらに努めるぐらいしかやりようもないだろうけど。やはり速攻で結婚して臣籍降下を狙うか。

最後に余談。
その『女性自身』の記事で、例の昨年話題になったヤバい写真が載っていたわけだが、そのキャプションが

「御交友の範囲も広かったようだ」

って書いてあって、いろんな意味で笑った。モノは言いようだ(皮肉にも取れるし)。
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陵墓問題と情報公開法 [天皇関係雑感]

先日、ある学会の大会に参加していた所、突然ある女性から「瀬畑さんですよね」と声をかけられた。
その方は1月の歴研総合部会で私の話を聞いていたらしく、一度話がしたいと思っていたとのこと。
近現代史の方かなと思っていたのだが、自己紹介をされて「おっ」と思った。
その方の名前は牧飛鳥さんという「日本古代史」の方だったのだ。

古代史と情報公開法がどう絡むのか。
それは「陵墓問題」=天皇のお墓の問題である。
日本にある多くの古墳は、「陵墓」(天皇・皇族の墓。もしくはその可能性がある=陵墓参考地)とされたものは、発掘調査だけでなく、立ち入り調査のレベルですら、すべて宮内庁によって制限されてきた。
世界最大級の古墳とされる大山古墳(仁徳天皇陵)なども、まともに学術調査すらされていない。
この宮内庁が抱えている陵墓の数は約900件にものぼる。

そのため、1970年代から、歴史学や考古学の各学会の代表者が「陵墓に関する連絡調整会議」を作って、毎年一回、宮内庁の書陵部長(陵墓の担当部局)らとねばり強い交渉を続けてきた。
しかも、頭ごなしに「発掘させろ」と言っても無駄なので、「とにかく立ち入り調査だけでもさせてほしい。皇室の尊厳は冒さないようにするから。」という、宮内庁のプライドを尊重する態度で交渉してきた。
宮内庁側も無下に断れなかったのか、陵墓の補修を行う時に立ち入りを認めたりと、本当に少しずつだが立ち入りを認めてきている。
専門家の域に達すると、立ち入って表面を見るだけでも、色々とわかることがあるらしい。
また、陵墓によっては、明らかに間違った指定をしている所すらあると言われている

まさに、この「亀のような歩み」の相手に対して、ずっと古代史の人達はもどかしい思いを抱えながら、前進を勝ち得てきた。
牧さんは、この「陵墓に関する連絡調整会議」に歴研の代表の一人として参加されていた人だった。

その後、牧さんとやりとりをするうちに、牧さんの夫である後藤真さんという方が、情報公開法で宮内庁の陵墓政策についての請求を行っており、そのことについて文章を書かれているという話を教えてもらった。
そして、わざわざ私に送ってくださった。

その文章とは、後藤真「現用文書よりみた陵墓―情報公開請求による文書の分析を中心に」(『奈良歴史研究』第66号、2006年9月)である。
陵墓問題には興味はあったけれども、あまり実態はよく知らなかったので、非常に面白かった。

後藤氏によれば、宮内庁の陵墓は「書陵部陵墓課」が管理・調査をしている。→宮内庁組織図
そして、具体的な管理は「書陵部」の「陵墓監区事務所」(現地事務所)が行っている。
問題は、そこで行われる「祭祀」は、「式部職」ないし「掌典職」が行っていて、陵墓課はあまり関係していないようなのだ。
「式部職」は儀式を担当する部局で、「掌典職」は実際の儀式を行う部局(憲法の政教分離規程のため天皇の「私的な使用人」という立場になっている)である。
そして、現地で儀式の準備をしているのは「陵墓監区事務所」である。

「陵墓」になぜ考古学者等の立ち入りが許されないのか。
宮内庁の論理によれば、そこが「生きた墓」として、未だに祭祀が行われているからである。
しかし、実際にその「陵墓の本義」である儀式は、式部職・掌典職・監区事務所というラインで行われていて、「陵墓課」は蚊帳の外に置かれている。
だから、「陵墓課」は考古学的な調査を行ってそれを公表しているが、陵墓そのものの「歴史的評価」が下せない。

つまり、考古学上「間違っている」とは言えない。(おそらく「間違っている」所は調査してないということか?←これは私の感想)
だから、陵墓を「守る」こと以外に動けなくなってしまっているのだ。

この後藤氏の解説は、なるほどなと感じるものがある。
宮内庁は典型的な「縦割り組織」であり、またそれぞれの部署のプライドが異様に高い。
これは、現在の雅子妃をめぐる、「長官官房・侍従職VS東宮職」という対立を見ればよくわかることだ。
陵墓問題すらも、この宮内庁の組織的弊害のワリを食っているということみたいなのだ。

本当ならば、実際に埋葬されている人が間違っているなら、それを正すのが筋である。(墓の中の人だって浮かばれない)
でも宮内庁は「儀式をやっている所に魂がある」と言い張って、陵墓の指定の変更をしようとはしない。
その態度は歴代天皇に対して「誠実」であるのだろうか。

結局この陵墓問題を進ませるには、ある程度の発掘調査は必要なはずである。
論争になっている邪馬台国がどこにあるかという話などは、陵墓の発掘でケリが付くんじゃないかと思う。
「生きた墓」の尊厳を守りながら、発掘できる方法は、学者や宮内庁、神社関係者が知恵を出し合えば何とかなるんじゃないかと思う(一時的に墓を移すとか)。

さて、こういった宮内庁内の論理を、情報公開法で引き出したというのは画期的だと思う。
私としては、「こんなところに仲間がいたのか」と感激した。

やはり情報公開法は、近現代史の問題だけではない。他の時代の研究をやっている人にも関係しているのだと感じる。
なかなか手に入りにくい雑誌ではあるのだが、是非ともお手にとって読んでもらいたい文章である。
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びっくりした [天皇関係雑感]

たまたま先程自分のブログのアクセス数を見てみたら、昨日から異様な数のアクセス数が記録されていてびっくりした。
しかもこの記事に。

「眞子様萌え~」!―皇族の萌えキャラ化に思う

どうやら、ヤフーの「日刊サイゾー」に「眞子様萌え」の話が載ったらしく、そこで検索して来た方がおられるらしい。
さらに、大手の書評サイトの「三軒茶屋」の「別館」のブログでリンクを貼っていただいたようで、そこから来られている方もかなりいるみたいだ。

今回の記事は、おそらく一部ではよく知られていることを、一般に紹介したということなのだろう。
上記のサイゾーの記事にはコメント欄があって、そこを見ると色々と書き込みがされている。
前の記事でも書いたように、不敬と思う人もいれば、それを敬意と見る人もいるという所なのだろう。

私は昔、卒業論文を書いたときに、戦後に行われた天皇に関する世論調査の結果を片っ端から集めて分析したことがある。
その時に感じたのは、天皇制、そして天皇個人への支持のあり方には世代毎に特徴があるなあということだ。

「現行の天皇制を支持するか否か」という聞き方をすると、1970年代以降の調査では、支持が70%を割ることはなかった。しかし、年齢別に見ると若い世代になるにつれて、支持率が減る。
だが、10年、20年後の調査を見ると、世代毎のカーブは結局前とあまり変わらなくなる。
つまり、年齢を重ねると支持に変わる人が増える傾向にある。

一方、天皇個人をどう思うかという調査をすると、昭和天皇と現在の天皇では大きく異なる。
昭和天皇の強固な支持基盤は戦前生まれの所であり、「尊敬」という選択肢を選ぶ人が多い。
一方、現天皇の場合は、天皇と同世代とやや下のあたり(戦中派)に多く、「親しみ」を選ぶ人が多い。
つまり、この二人だけを見ても、支持される内実に変化が生じていることがわかる。
(なお、どちらも「無感情・無関心」が40%~50%いることは共通している。)

現在の皇太子に対する調査はまだ調べたことがないが、選択肢を与える形ではないフリーに感想を聞く調査をしたなら、また違った答えが出てくるのではないだろうか。
でも、おそらく皇太子夫妻を支持するのは、やはり同世代なのではないかという感じはする。

支持のされ方は、その皇族と同世代の人が、どのような「同世代感覚」を持つかということと大いに関係している。
つまり、その時の社会の動きとか、文化の状況に大きく左右されるところがあるのではないか。
だから、その意味で、この「眞子様萌え」が、「萌え文化」の広がりの中で出てくるのも、自然ではあったのではないだろうか。

皇室評論家の高橋紘氏が良くおっしゃっていたが、「国民が天皇を無視している状態は一番良くない。賛成論だろうが廃止論だろうが、議論することが一番大切なんだ。」ということに、私は賛同している。
一過性で「へぇー」というレベルで結局は終わるとは思うが、天皇の問題を少しでも考える機会になっているのであれば、今回の記事は良かったのではないだろうか。宮内庁は困惑していると思うけど。

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大正天皇実録の公開(3回目) [天皇関係雑感]

昨日、『大正天皇実録』の第3回目の公開が、宮内庁書陵部から行われた。
参考までに共同通信の発表を貼っておきます。

晩年期の大正天皇実録公開 古代の例挙げ摂政の正当性

 宮内庁は4日、大正天皇の動静や当時の出来事を年ごとに記録した「大正天皇実録」全85冊のうち、晩年に当たる1921(大正10)年7月から葬儀が行われた27(昭和2)年2月までの5年半分、計9冊を公開した。

 病状が悪化していた大正天皇は、葉山や日光など御用邸で静養することが多く、代わりに皇太子(のちの昭和天皇)に関する記述が急増。

 欧州外遊から帰国後の21年11月に皇太子が摂政に就任した正当性を「摂政設置のことは、其(そ)の沿革極めて古く…」「摂政を置くは国家皇室の大事なるが故に…」と、推古天皇など古代の例を引きながら約8ページにわたって詳述している。

 皇太子は祝典で勅語を代読したり、外国の全権大使と会見したりするなど実質的に天皇として活動。関東大震災では1000万円を被災者に贈り「心深く之(これ)を傷む」「官民其(そ)れ協力して(略)処置を為(な)し以(もっ)て遺憾なきを期せよ」と発言している。
2008/06/04 13:40 【共同通信】

以前の記事で書いていたように、すでに日経が3月公開だと報じていたはずなので、ずいぶん遅れたと思う。
というか、そもそも前回の公開からすでに5年経過している。
病気の部分というナイーブな所があったとしても、いくらなんでも時間がかかりすぎだろうと感じる。

どうやら病歴の部分も多少は公開されているみたいだ。ただし、他の関係者の日記に書かれている以上のことはおそらく「個人情報」で出ていないのではと思う。
まだ、専門家の意見が出ていないので何とも言えないのだが(おそらく今頃原武史氏や古川隆久氏あたりが新聞社に捕まっているのではと思われるが)、摂政時代の昭和天皇の動向などがきちんと描かれていれば政治史としては価値のある史料になると思う。
そうでなければ、大正天皇の療養記録と言った方が正しいものになっているかもしれない。(もちろんそれはそれで意味があると思う。)

『大正天皇実録』はこれで終わりではない。あと皇太子時代のものが残っている。
それに、やはり宮内庁は、『明治天皇紀』と同様に、大正天皇実録も墨塗りを一切無くした形で公刊するべきである。
天皇の公的な伝記を非公開にする理由はないはずだ。少なくとも大正天皇の死去からもう80年以上経過している。
歴史的な史料という形で公刊を考えるべきだ。情報公開法は「公にする慣行のある情報」については、個人情報だとしても公開は可能なはず。法的には十分処理可能なはずだ。

天皇の伝記は国費を投入されて作られたものである。これの公開を宮内庁が躊躇する正当な理由は私にはないと考える。是非ともその点を考えてほしいと思う。
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理研映画「日本の象徴」を見る [天皇関係雑感]

ある方から、国立近代美術館フィルムセンターで、天皇の昔の映画をやるという情報を得たので、見に行ってきた。

フィルムセンターは、映画の修復保全などを専門に行っている機関で、おそらく日本で古い映画フィルムを一番保管している所であろう。
収集された古い映画の上映会もよく行っている。

今回は「発掘された映画たち2008」という企画が行われており、この中の「戦後記録映画選集」の回の中に天皇関連の映画が含まれていた。→リンク(たぶんしばらくしたら切れるのではと思うが)
この「選集」で放映されたのは以下の5本。

①国立近代美術舘 記録 第1集(1953年)
②美の誕生 (1948年)
③貿易まつり (1949年)
④日本の象徴(1950年)
⑤さばん丸完成 (1950年)

①は国立近代美術館が開館した時に作られた映画。皇后と皇太子が訪問した(1953年3月12日)様子が冒頭に登場する。
②はデンマーク体操の映像。藤沢高等女学校の女学生がひたすら演技をしているもの。
③は横浜で開かれた日本貿易博覧会の映像。「復興」のイメージがものすごく強調されている。
⑤は戦時中に沈んだ船を引き揚げて、タンカーに改造するまでの話。汽船会社の依頼で作られたっぽい記録映画。

さて、もちろん私が見たかったのは④である。
この「日本の象徴」は1950年に理研映画が作成したものである。
理研は科学映画を中心に作っていた会社であり、この映画は「理研文化ニュース」と「読売国際ニュース」の映像を使って作られた(冒頭にそのキャプションがあった)。
読売とどういう提携関係があったかはよくわからない。

なお同じ時期(1951年)に、「日本ニュース」を作っていた日本映画社が「国民の中の天皇」という映画を作成している。
これは、現在でもビデオで販売されている。こちらは見たことがあったので、理研の方がどのような映像を作っているのかは興味があった。

ナレーターは徳川夢声。
初めに皇居の映像が流れている中で、説明が入る。
天皇制が2000年以上にわたって続いており、天皇と国民とは美しい感情でつながっていた。
しかし、幕末の思想家が天皇を神とし、明治以降に軍が中心となって天皇を神格化した。
そして、天皇と国民の感情交流が一片も無くなった。
それが国民主権に変わり、天皇自らが神格を否定した。そして天皇は人間として国民の中へ入っていった。

そして「巡幸」の映像が延々と流れる。群衆に囲まれる、広島での演説、炭坑に入る、孤児院や盲聾学校、引揚者への慰問・・・。
ナレーターは言う。「美しい感情の交流」がここにはあると。
その後も、生物学に取り組む天皇の映像などが流れ、最後に天皇一家の写真が映され、天皇は日本人の美点を集めた象徴であるとし、天皇と日の丸の旗と共に平和へと邁進しようというところで終わる。

映像論を専門にしているわけではないので、どうしても何を「説明」しているのかの方に関心が向いてしまう。
この映画のナレーションは、近代の大日本帝国下の天皇のあり方を全面否定することで現在の天皇制のあり方を「伝統」と見るということで一貫している。
そして、「天皇の仁慈」を強調し、それが実際にさまざまな国民のもとにたどり着いている様子が映し出されるのだ。

もしこの映像を文脈無しで見れば、まさに徳川が言うように「美しい」姿がそこにはある。
あの巡幸の群衆に囲まれる天皇の姿を見れば、そこには「国民の圧倒的多数から支持されている天皇」像を否定できない。
そこは映像の強さでもあり、また問題でもある。
もし天皇の戦争責任を漠然とでも感じている人がこの映画を見たら、沈黙するしかないだろう。自分が「少数派」であることを実感させられるのだから。

映像はあくまでも監督の意思でもって編集されている。そこにあるものは「事実」ではあるが「真実」ではないと思うのだ。
切り取り方によって映像は意味を変える。もちろん見る人によっても。
歴史研究をしていると、この「映像」をどう扱うのかという問題に直面することは多い。(ニュース映画の研究会の末席にもこっそり入っているし。)

象徴天皇制の支持基盤を考えるときに、こういった映画の持つ意味は何だろうと考えるが、どうしても「現在の自分の視点」が強く出過ぎて、分析に自信がなくなる。
でも、今までの歴史研究は、こういった映画を「無かった」ことにして研究をしている
たぶん、天皇制を支持する意識というのは、こういう映画を見る所から作られている側面があるんじゃないかと考えざるを得ないのだ。

今回、この映画を見て、やはり映像はインパクトがあるなあと再認識せざるをえなかった。
何と言っても、昭和天皇は巡幸中「楽しそう」なのだ。あの笑顔は作り笑いではできない。
あの笑顔は強い。昭和天皇の「笑顔」が持った意味ということはもっと考えなくてはならないなと思った。

さて、今回フィルムセンターで初めて映画を見たのだが、なかなか席の座り心地が良い。
それに安い。学生で300円だった。さすがに国立(独法だけど)。
しかし、多摩から東京駅まで出て行くのは遠い。都心に住んでいる人が少しうらやましくなった。
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パレスホテルの高層化に宮内庁が反対するという話 [天皇関係雑感]

本日の読売新聞の記事。すぐに消えるので貼っておきます。

パレスホテル高層化案に変更要請、宮内庁が皇居内眺望に配慮

5月9日14時43分配信 読売新聞

 皇居わきに立つパレスホテル(東京都千代田区)が、現在の地上10階から23階建てへの建て替えを予定していることがわかり、宮内庁が計画の変更を要請している。

 皇居内にある宮内庁病院の窓が客室から見えるようになるためで、同庁は「天皇陛下や皇族方も入院されるだけに、プライバシー保護への高度な配慮が求められる」と訴えている。

 パレスホテル側が同庁などに示した計画によると、建て替えにより、同ホテルの高さは現在の約30メートルから約100メートルになる見込み。

 来春から工事を始め、2011年秋に完成、12年春に営業を再開する予定だ。

 同ホテルと宮内庁病院との距離は約200メートル。病院の2階には皇室専用の御料病室が2部屋あり、最近では01年11月に皇太子妃雅子さまが愛子さま出産のため、02年12月に天皇陛下が前立腺の組織検査のため、昨年6月に三笠宮寛仁さまがアルコール依存症治療のために入院されている。

 今はホテルの最上階に立っても樹木に遮られて病院の屋根付近しか見えないが、建て替え後は、高層階のバルコニーから御料病室の窓が見えるようになるという。

 宮内庁が昨年末以降、計画変更を再三申し入れてきたのに対し、ホテル側は「10階以上のバルコニーに特殊なスモークガラスを使ったスクリーンを設けて、病院の方向が見づらくなるよう配慮する」などと回答。しかし、同庁は「ホテルからのぞかれかねないという意識は消えない」と反発、病院の近くに両陛下が使用されるテニスコートもあることから、「警備上の問題も生じる」としている。

 パレスホテル広報室は「まだ計画を公表できる段階ではなく、コメントを控えたい」と話している。

最終更新:5月9日15時2分

こういった話を聞くとすぐに思い出すのが、猪瀬直樹の『ミカドの肖像』である。
この本の冒頭に、丸の内にある東京海上ビルの高さがなぜ「99.7m」なのかという話が載っていて、これが非常におもしろい話なのだ。
久しぶりにその部分だけ読み返してみたが、やはり猪瀬直樹の切れ味は抜群だなあと思う。

東京海上ビルは丸の内に初めて建った高層ビルである。それまでは今は無き丸ビルと新丸ビルの高さ(百尺、約31m)に建物と高さが揃えられていた。
東京海上はこのビルを建てるときに、ヘリを300mの高さまで飛ばして、皇居の中がどこまで見えるかの実験をした。
そして宮内庁に行って高層化しても皇居内は見えないから大丈夫だと話をしてOKをもらい、さらに右翼の児玉誉士夫の所にお伺いをたてに行ってOKをもらってきた。
そして128mのビルを建てることにしたのだが、ところがなかなか先に進まなかった。
猪瀬によれば、東京都、三菱地所、佐藤栄作首相などなどが、なんだかあいまいな理由で計画を先延ばしにしていくように動いていたようである。(佐藤栄作などは「高いのは嫌いだ!」という理由だったという。)
これを猪瀬は「天皇をめぐる不可視の禁忌」に触れた出来事だという書き方をした。

結局オチとしては、100m以下にするという話になって、「30cm」だけ高さを下げた99.7mになったというのである。
さらにその根拠として猪瀬が一つの噂を紹介していて、「皇居の御文庫から仰角4.5度で引っ張った線以下ならよい」という話であの高さになったというのだ。

皇室をめぐる一つの空気のようなタブーを、これほど鮮やかに浮かびあがらした本は、他には余り記憶がない。

さて、今回の話は宮内庁自体が抗議をしているという所に、東京海上の時とは違う事情がある。
しかも、宮内庁が言っているのは、数年に1回しか入院しない皇族のために高さを下げろと言っているわけだ。
よくマンションが建つときに、日照権やプライバシー権などを主張するものとは次元が同じとは言いがたい。
パレスホテルがきちんと対応するのであれば、別に構わないのではないのかと私などは思う。
それにパレスホテルは法的に問題行為をしているわけではないのだ。

それに、「本当に見えるのか」宮内庁は調べたのだろうか。
どの高さで、どのくらい見えるのか、実測しているのだろうか。
なんだか、「高いから嫌だ」という佐藤栄作と同レベルで話をしていないかがものすごく気になる。

どういう決着が付くのかに注目してみたいと思う。

ミカドの肖像 (小学館文庫)

ミカドの肖像 (小学館文庫)

  • 作者: 猪瀬 直樹
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2005/03
  • メディア: 文庫



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御寺泉涌寺 [天皇関係雑感]

sennyuji.jpg京都の話続き。
京都御所と並んでもう一ヶ所行っておきたかったところがあった。
それは泉涌寺(せんにゅうじ)である。

泉涌寺は京都駅の南東、東福寺の近くにある寺である。
京都の中ではあまり観光客が訪れない地域にあり、観光ガイドにもそれほど大きな取扱いをされる所ではない。

しかし、天皇制研究者にとっては実に興味深い所である。
泉涌寺は天皇家の菩提寺(正確には香華院)なのである。(そのために「御寺」(みてら)とも言われる。)
具体的には、鎌倉時代の後堀河天皇と四条天皇、江戸時代の後水尾天皇から孝明天皇までの天皇が埋葬されている。

「天皇家=神道」というイメージでどうしても語られてしまうわけだが、幕末の孝明天皇までは仏式で墓は作られている。
聖徳太子を引くまでもないが、そもそも皇室は「神仏習合」が「伝統」なのである。

今回実際に泉涌寺に行って、いくつか気づいたことがあったので、備忘録的に書いておきたい。歴代天皇の名前がいっぱい出てきて、さっぱりわからないかもしれないが申し訳ない。

・「灰塚」の存在
泉涌寺の「月輪陵」「後月輪陵」の前にあった宮内庁の看板(上記写真)に、後土御門天皇から後陽成天皇までの「灰塚」があるということが書かれていた。
これらの天皇の墓は深草にあるはずなので、どういうことかと気になって聞いてみたところ、宝物館の研究員の人が答えてくれた。

これらの天皇は室町時代末期から江戸初期に在位していたのだが、そのころは天皇は火葬されていた。
そのために、「髪」「骨」「灰」という3つが形見として残り、それを形見分けする(分骨する)ということが行われていたらしい。
泉涌寺は葬式を行っていた場所だったので、そこに「灰」は埋葬され、「骨」は深草に埋葬されたということなのだそうだ。
しかし、後陽成天皇の葬儀の時の形見分けで一悶着あったらしく、その次の後水尾天皇からは「土葬」されることになった。そして以後の天皇は葬儀場だった泉涌寺にそのまま埋葬されることになったとのことだ。

さて、しかしよくパンフを読んでみると、月輪陵には「25陵、5灰塚、9墓」あると書いてある。
5灰塚はいいとして、25陵は数が合わない。(9墓は皇后の墓)
そこでパンフの年表を見てみるとどうもこういうことらしい。

観音寺陵・・・後堀河
月輪・後月輪陵・・・四条、後光厳~孝明(24人)

で、宮内庁が考えている正式な陵墓は、立て札からみると、
観音寺陵・・・後堀河
月輪・後月輪陵・・・後水尾~孝明(14人)
のようだ。

ということは、後光厳~後陽成までの10人は、上記した「分骨」がされている+さらに後土御門からの5名は灰塚もあるという解釈でよいということだろうか?

・未だに残る神仏習合
パンフなどを読んでいて気づいたのだが、泉涌寺の霊明殿には歴代の天皇皇后の位牌(尊牌)があるのだが、その中に「昭和天皇」「香淳皇后」も入っているのだ。
つまり、昭和天皇には「仏教式の位牌」が存在するということになる。
そして、現天皇を始め多くの皇族が泉涌寺には参拝しており、天皇家は普通に「仏式」の慰霊をしていることになる。

泉涌寺には「海会堂」(かいえどう)という建物があるのだが、これは京都御所にあった仏堂を、明治初期の神仏分離の時に泉涌寺に移転させたものである。また、各地にあった位牌(尊牌)を泉涌寺に集中させたとのことなので、表向きには泉涌寺だけを例外として神仏分離をしたということなのだろう。
だが、以前、工藤美代子の『母宮貞明皇后とその時代―三笠宮両殿下が語る思い出』について書いた記事の中で、貞明皇后(大正天皇妻)の御舟入り(納棺)の時に、「南無妙法蓮華経 南無阿弥陀仏」という紙を書いて、それをねじって棺に入れるという話を紹介したように、どうやら天皇家では神仏分離が徹底されずに、「神仏習合」色がかなり残っているということみたいだ。

・石碑を建てた人たち
泉涌寺の境内に「~天皇陵→」みたいな道しるべとなる石碑がいくつか建っていた。
裏側を見ると、昭和四年(1929年)、「大阪 皇陵参拝会」という団体が建てていたものがほとんどだった。
ネットで検索してみると、どうも他の所にも石碑を建てているみたいだし、それなりの活動があった団体のようである。
ここに限ったことではないが、天皇関係の道しるべになっている石碑は、明治リバイバルブームがあった大正末期から昭和初期ぐらいに建てられたものがほとんどであり、これもこの一つになるんだろう。

ただ、同時に気になったのは、「戦前は一般の人は参拝できなかった」という話を受付の人に聞いたことだ。
それなら何で石碑は必要だったんだろうか。皇陵は行けたが寺には参拝できなかったということなのだろうか。


とりあえずこんなところだが、やはり行ってみると色々と気づくことは多い。
時間があれば泉涌寺のことについてもう少し知識を増やしてみたい。

追記
なお、天皇陵のことを調べるために、宮内庁のホームページを見たのだが、北朝の天皇の天皇陵の紹介が全くなかった。
まだ宮内庁は「南朝正閏説」なのだなあと、改めてこの官庁の持つ形式主義的行動を実感した次第。
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京都御所の一般公開 [天皇関係雑感]

gosyo01.jpg
資料調査で京都に行きました。
京都駅を降りてみて考えてみると、京都の市街地に降りるのは10年以上ぶりであることに気づきました。
天皇制研究を始めてから行った記憶が全くないので。

たまたま偶然だったのだが、ちょうど調査に行っている時に京都御所が一般公開されていた。
普段は事前に申込みをしないと見れないのだが、毎年春と夏に5日間だけ自由に入ることができる。
天皇制研究者としては、ここは一度は行ってみたいと思っていたので、調査の時間をやりくりして行ってきた。

写真は紫宸殿内に置かれている「高御座」。
高御座は天皇の即位の礼の時に天皇が座る特別なもので、現天皇の即位の礼をご記憶の方なら、そこに天皇が座り、海部首相がその前で即位の祝辞を述べていたことを覚えておられるかもしれない。当時は政教分離問題で結構もめたものです。
高御座の天皇の写真(宮内庁のサイト)。並んでいる写真の「即位礼正殿の儀」が高御座の天皇。

京都御所の感想としては、「センスがいいよなあ」というのが率直なところ。
建物自体は、火災で燃えたりしてそれほど古くもないし、戦前までは天皇が宿泊するときによく使われていた(今は同じ京都御苑内の大宮御所の方が使われているはず)ので、微妙に生活感が無くもない。
だからかもしれないが、ふすまの絵とか落ち着く感じ。結構こぢんまりしているし。

ただ、紫宸殿の階段の上まで行かせてほしかったなあ。写真を見ても分かると思うが、高御座は見にくいのだ。あの位置からは。
そのぐらいのサービスはしてくれるといいんだけどなあ・・・
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