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御寺泉涌寺 [天皇関係雑感]

sennyuji.jpg京都の話続き。
京都御所と並んでもう一ヶ所行っておきたかったところがあった。
それは泉涌寺(せんにゅうじ)である。

泉涌寺は京都駅の南東、東福寺の近くにある寺である。
京都の中ではあまり観光客が訪れない地域にあり、観光ガイドにもそれほど大きな取扱いをされる所ではない。

しかし、天皇制研究者にとっては実に興味深い所である。
泉涌寺は天皇家の菩提寺(正確には香華院)なのである。(そのために「御寺」(みてら)とも言われる。)
具体的には、鎌倉時代の後堀河天皇と四条天皇、江戸時代の後水尾天皇から孝明天皇までの天皇が埋葬されている。

「天皇家=神道」というイメージでどうしても語られてしまうわけだが、幕末の孝明天皇までは仏式で墓は作られている。
聖徳太子を引くまでもないが、そもそも皇室は「神仏習合」が「伝統」なのである。

今回実際に泉涌寺に行って、いくつか気づいたことがあったので、備忘録的に書いておきたい。歴代天皇の名前がいっぱい出てきて、さっぱりわからないかもしれないが申し訳ない。

・「灰塚」の存在
泉涌寺の「月輪陵」「後月輪陵」の前にあった宮内庁の看板(上記写真)に、後土御門天皇から後陽成天皇までの「灰塚」があるということが書かれていた。
これらの天皇の墓は深草にあるはずなので、どういうことかと気になって聞いてみたところ、宝物館の研究員の人が答えてくれた。

これらの天皇は室町時代末期から江戸初期に在位していたのだが、そのころは天皇は火葬されていた。
そのために、「髪」「骨」「灰」という3つが形見として残り、それを形見分けする(分骨する)ということが行われていたらしい。
泉涌寺は葬式を行っていた場所だったので、そこに「灰」は埋葬され、「骨」は深草に埋葬されたということなのだそうだ。
しかし、後陽成天皇の葬儀の時の形見分けで一悶着あったらしく、その次の後水尾天皇からは「土葬」されることになった。そして以後の天皇は葬儀場だった泉涌寺にそのまま埋葬されることになったとのことだ。

さて、しかしよくパンフを読んでみると、月輪陵には「25陵、5灰塚、9墓」あると書いてある。
5灰塚はいいとして、25陵は数が合わない。(9墓は皇后の墓)
そこでパンフの年表を見てみるとどうもこういうことらしい。

観音寺陵・・・後堀河
月輪・後月輪陵・・・四条、後光厳~孝明(24人)

で、宮内庁が考えている正式な陵墓は、立て札からみると、
観音寺陵・・・後堀河
月輪・後月輪陵・・・後水尾~孝明(14人)
のようだ。

ということは、後光厳~後陽成までの10人は、上記した「分骨」がされている+さらに後土御門からの5名は灰塚もあるという解釈でよいということだろうか?

・未だに残る神仏習合
パンフなどを読んでいて気づいたのだが、泉涌寺の霊明殿には歴代の天皇皇后の位牌(尊牌)があるのだが、その中に「昭和天皇」「香淳皇后」も入っているのだ。
つまり、昭和天皇には「仏教式の位牌」が存在するということになる。
そして、現天皇を始め多くの皇族が泉涌寺には参拝しており、天皇家は普通に「仏式」の慰霊をしていることになる。

泉涌寺には「海会堂」(かいえどう)という建物があるのだが、これは京都御所にあった仏堂を、明治初期の神仏分離の時に泉涌寺に移転させたものである。また、各地にあった位牌(尊牌)を泉涌寺に集中させたとのことなので、表向きには泉涌寺だけを例外として神仏分離をしたということなのだろう。
だが、以前、工藤美代子の『母宮貞明皇后とその時代―三笠宮両殿下が語る思い出』について書いた記事の中で、貞明皇后(大正天皇妻)の御舟入り(納棺)の時に、「南無妙法蓮華経 南無阿弥陀仏」という紙を書いて、それをねじって棺に入れるという話を紹介したように、どうやら天皇家では神仏分離が徹底されずに、「神仏習合」色がかなり残っているということみたいだ。

・石碑を建てた人たち
泉涌寺の境内に「~天皇陵→」みたいな道しるべとなる石碑がいくつか建っていた。
裏側を見ると、昭和四年(1929年)、「大阪 皇陵参拝会」という団体が建てていたものがほとんどだった。
ネットで検索してみると、どうも他の所にも石碑を建てているみたいだし、それなりの活動があった団体のようである。
ここに限ったことではないが、天皇関係の道しるべになっている石碑は、明治リバイバルブームがあった大正末期から昭和初期ぐらいに建てられたものがほとんどであり、これもこの一つになるんだろう。

ただ、同時に気になったのは、「戦前は一般の人は参拝できなかった」という話を受付の人に聞いたことだ。
それなら何で石碑は必要だったんだろうか。皇陵は行けたが寺には参拝できなかったということなのだろうか。


とりあえずこんなところだが、やはり行ってみると色々と気づくことは多い。
時間があれば泉涌寺のことについてもう少し知識を増やしてみたい。

追記
なお、天皇陵のことを調べるために、宮内庁のホームページを見たのだが、北朝の天皇の天皇陵の紹介が全くなかった。
まだ宮内庁は「南朝正閏説」なのだなあと、改めてこの官庁の持つ形式主義的行動を実感した次第。
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