『戦後史のなかの象徴天皇制』出版しました [天皇関係雑感]
2013年11月9日に吉田書店から『戦後史のなかの象徴天皇制』が出版されました。
http://www.yoshidapublishing.com/booksdetail/pg642.html
私は「象徴天皇制における行幸――昭和天皇「戦後巡幸」論」とコラムの「人事から見た宮内庁史」を執筆しました。
ほぼ4年ぐらいかけて、若手の戦後天皇制の研究者を集めてわいわいと議論しながら作った本です。
よろしければお手にとってくださいませ。
河西 秀哉編著『戦後史のなかの象徴天皇制』吉田書店、2013年
ISBN:978-4-905497-16-5、A5判、280頁、本体価格2700円
【目次】
総 論 象徴天皇制・天皇像研究のあゆみと課題【河西秀哉】
第1章 昭和天皇の象徴天皇制認識【後藤致人】
第2章 象徴天皇制における行幸――昭和天皇「戦後巡幸」論【瀬畑 源】
第3章 イギリスから見た戦後天皇制【冨永 望】
第4章 佐藤栄作内閣期の昭和天皇「皇室外交」――一九七一年訪欧の政策決定過程を中心に【舟橋正真】
第5章 戦後皇族論――象徴天皇の補完者としての弟宮【河西秀哉】
第6章 マスメディアにおける天皇・皇族写真――取材許可をめぐる宮内庁・マスメディア間の力学に焦点をあてて【楠谷 遼】
第7章 ミッチー・ブーム、その後【森 暢平】
コラム1(行政機関としての宮内庁)
コラム2(人事から見た宮内庁史)
コラム3(皇室典範改正問題)
コラム4(日記から見る政治家と昭和天皇)
コラム5(公刊された側近たちの日記)
コラム6(皇室とメディア)
付録 宮内庁機構図/宮内庁歴代幹部リスト/象徴天皇制関連年表/天皇家系図
http://www.yoshidapublishing.com/booksdetail/pg642.html
私は「象徴天皇制における行幸――昭和天皇「戦後巡幸」論」とコラムの「人事から見た宮内庁史」を執筆しました。
ほぼ4年ぐらいかけて、若手の戦後天皇制の研究者を集めてわいわいと議論しながら作った本です。
よろしければお手にとってくださいませ。
河西 秀哉編著『戦後史のなかの象徴天皇制』吉田書店、2013年
ISBN:978-4-905497-16-5、A5判、280頁、本体価格2700円
【目次】
総 論 象徴天皇制・天皇像研究のあゆみと課題【河西秀哉】
第1章 昭和天皇の象徴天皇制認識【後藤致人】
第2章 象徴天皇制における行幸――昭和天皇「戦後巡幸」論【瀬畑 源】
第3章 イギリスから見た戦後天皇制【冨永 望】
第4章 佐藤栄作内閣期の昭和天皇「皇室外交」――一九七一年訪欧の政策決定過程を中心に【舟橋正真】
第5章 戦後皇族論――象徴天皇の補完者としての弟宮【河西秀哉】
第6章 マスメディアにおける天皇・皇族写真――取材許可をめぐる宮内庁・マスメディア間の力学に焦点をあてて【楠谷 遼】
第7章 ミッチー・ブーム、その後【森 暢平】
コラム1(行政機関としての宮内庁)
コラム2(人事から見た宮内庁史)
コラム3(皇室典範改正問題)
コラム4(日記から見る政治家と昭和天皇)
コラム5(公刊された側近たちの日記)
コラム6(皇室とメディア)
付録 宮内庁機構図/宮内庁歴代幹部リスト/象徴天皇制関連年表/天皇家系図
「宮中・府中の別」の解体過程 ――宮内省から宮内府、宮内庁へ [天皇関係雑感]
すっかり間が空きました。
『一橋社会科学』第5巻、2013年7月、に
「「宮中・府中の別」の解体過程 ――宮内省から宮内府、宮内庁へ」
という論文が載りました。大学のレポジトリで公開されましたので、ネット上で読むことができます。
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/25793
内容は、敗戦直後の宮内省の解体の話を、政府やGHQと宮内省との関係や官制の変遷に着目して詳述したものです。
結構マニアックな話ではあるのですが、いまの宮内庁がどのような組織であるのかということを考えるには最適な論文かと思います。
この論文は、公文書管理問題に取り組むなかで考えたものです。
元々アイデアとしては漠然とは持っていたのですが、『公文書をつかう』の第1章を書くなかで、宮内省の官制の変遷はやれば面白いという感触をえてました。
自分の中では、情報公開で入手した資料を前面に打ち出せて書けたという意味で、10年越しの達成感があります。
個人情報の壁が大きく、核として論文を書けるだけの資料が思うように集まっていなかったので・・・
それとやっと天皇制研究者に戻ってきた感じがします。
今年は友人達と作っている本も秋ぐらいには出る予定なので、少しは専門の論文を出せそうです。
もしよろしければクリックしてみて下さいませ。
※追記。1ヶ所誤植発見。
6ページ目の表2の1946年4月の2級官の数字が234ではなく284。合計も4737→4787が正しいです。
あと、『歴史学研究』907号、2013年7月、に「「科学運動」という言葉」という歴研80年特集のエッセイを書きました。
歴研委員の仕事についてと、「科学運動」という言葉を使い続けるなら、もう一度再構築する必要があるのではという問題提起を書いてみました。
前者については、歴研の歴史を振り返る際に、こういった記録は必要だろうということを意識して書きました。
雑誌は大学の図書館などには入っていることが多いと思います。
どうぞよろしく御願いします。
『一橋社会科学』第5巻、2013年7月、に
「「宮中・府中の別」の解体過程 ――宮内省から宮内府、宮内庁へ」
という論文が載りました。大学のレポジトリで公開されましたので、ネット上で読むことができます。
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/25793
内容は、敗戦直後の宮内省の解体の話を、政府やGHQと宮内省との関係や官制の変遷に着目して詳述したものです。
結構マニアックな話ではあるのですが、いまの宮内庁がどのような組織であるのかということを考えるには最適な論文かと思います。
この論文は、公文書管理問題に取り組むなかで考えたものです。
元々アイデアとしては漠然とは持っていたのですが、『公文書をつかう』の第1章を書くなかで、宮内省の官制の変遷はやれば面白いという感触をえてました。
自分の中では、情報公開で入手した資料を前面に打ち出せて書けたという意味で、10年越しの達成感があります。
個人情報の壁が大きく、核として論文を書けるだけの資料が思うように集まっていなかったので・・・
それとやっと天皇制研究者に戻ってきた感じがします。
今年は友人達と作っている本も秋ぐらいには出る予定なので、少しは専門の論文を出せそうです。
もしよろしければクリックしてみて下さいませ。
※追記。1ヶ所誤植発見。
6ページ目の表2の1946年4月の2級官の数字が234ではなく284。合計も4737→4787が正しいです。
あと、『歴史学研究』907号、2013年7月、に「「科学運動」という言葉」という歴研80年特集のエッセイを書きました。
歴研委員の仕事についてと、「科学運動」という言葉を使い続けるなら、もう一度再構築する必要があるのではという問題提起を書いてみました。
前者については、歴研の歴史を振り返る際に、こういった記録は必要だろうということを意識して書きました。
雑誌は大学の図書館などには入っていることが多いと思います。
どうぞよろしく御願いします。
日光田母沢御用邸記念公園 [天皇関係雑感]
7月20日にアクセス70万突破しました。どうもありがとうございました。
原稿が一段落付いたので、日光へと行ってきました。
お目当ては、前から行きたくて機会をうかがっていた日光田母沢御用邸記念公園。
戦前にあった御用邸の一つで、主に大正天皇の療養のために使われていたものであるが、私の研究にひきつけると、1944年7月10日から45年7月12日に皇太子時代の今上天皇が疎開していた所である。
自分の行動パターンだとすでに行っていてもおかしくなかったのだが、なぜだか機を逸していた。
行ってみると、思ったよりも広かった。
皇太子が疎開したとき、残りの学習院の同級生は金谷ホテルに収容されており、御用邸には皇太子の側近しかいなかった。だから、狭いから同級生を収容していなかったと思いこんでいた。
だが、部屋数が106もあり、皇太子が住んでいた場所は端の方の一角でしかなかった。
やはり、戦前だからそのあたりの区別は厳密だったということなんだろう。
こういった感覚は、行って見てこないとやはりわからないなあと改めて思う。
ちなみに、冬場は御用邸内で授業を行うことになったため、学習院生が通ってきていたという。
なお、1945年7月以降、奥日光湯元の南間ホテルに再疎開したため、皇太子と同級生は一緒の建物に住まざるを得なくなった。
この南間ホテルはすでに倒産しており、宿泊していた建物は栃木県の益子に移築されてレストランになっている。
さて、この田母沢御用邸、重要文化財指定を受けている建物なのだが、なかなか興味深い建物だった。
元は紀州藩江戸中屋敷の一部であったが、それを日光に移築して、その場にあった民間人の別邸にくっつけ、さらにそこから増設して最終形に至っている。
そのため、江戸末期から大正時代の建築様式がごちゃ混ぜになってる。
だから、廊下を歩いていると、時折雰囲気がふっと変わる瞬間がある。そこが継ぎ目になるわけだが、それでも良く調和が取れていて、それほど違和感はない。
ただ、和室なのにシャンデリアとか、なんだか色々と和洋折衷で面白い雰囲気があった。
残念だったのは、きちんとした解説付きの冊子が作られてなかったことか。
旧御用邸でここまでの規模で建物が残っているのは、田母沢と沼津ぐらいだと思うが、沼津は結構しっかりとした冊子を作っていて非常に参考になった。
だが、田母沢では写真集しか売ってなかった・・・
「謁見の間」の説明に、「『大正天皇実録』によれば・・・」みたいな説明文があったから、色々と資料は調べているみたいなんだがなあ・・・。勿体ない。
以下は、写真。
御用邸正門。工事中なのは、震災で石積みが緩んだためらしい。どこが問題だったのかはよくわからなかった。
御用邸の地図。右上の水色の部分が皇后のための区画。そこに皇太子は疎開していた。
皇太子が疎開していた建物。一番奥が寝室。元から日光にあった小林邸の一部。
その建物を外側から撮ったもの。
その左側の続きの建物。
その建物の前にあった天皇皇后による植樹(2001年)。ネットに覆われているから「引き抜いた奴でもいるんか?」とか思ったが、ただの鹿の食害対策だった。まあ枯らせるわけにはいかんということなんだろう。
庭にあった防空壕。やはりどの御用邸にもきちんと作られている。
原稿が一段落付いたので、日光へと行ってきました。
お目当ては、前から行きたくて機会をうかがっていた日光田母沢御用邸記念公園。
戦前にあった御用邸の一つで、主に大正天皇の療養のために使われていたものであるが、私の研究にひきつけると、1944年7月10日から45年7月12日に皇太子時代の今上天皇が疎開していた所である。
自分の行動パターンだとすでに行っていてもおかしくなかったのだが、なぜだか機を逸していた。
行ってみると、思ったよりも広かった。
皇太子が疎開したとき、残りの学習院の同級生は金谷ホテルに収容されており、御用邸には皇太子の側近しかいなかった。だから、狭いから同級生を収容していなかったと思いこんでいた。
だが、部屋数が106もあり、皇太子が住んでいた場所は端の方の一角でしかなかった。
やはり、戦前だからそのあたりの区別は厳密だったということなんだろう。
こういった感覚は、行って見てこないとやはりわからないなあと改めて思う。
ちなみに、冬場は御用邸内で授業を行うことになったため、学習院生が通ってきていたという。
なお、1945年7月以降、奥日光湯元の南間ホテルに再疎開したため、皇太子と同級生は一緒の建物に住まざるを得なくなった。
この南間ホテルはすでに倒産しており、宿泊していた建物は栃木県の益子に移築されてレストランになっている。
さて、この田母沢御用邸、重要文化財指定を受けている建物なのだが、なかなか興味深い建物だった。
元は紀州藩江戸中屋敷の一部であったが、それを日光に移築して、その場にあった民間人の別邸にくっつけ、さらにそこから増設して最終形に至っている。
そのため、江戸末期から大正時代の建築様式がごちゃ混ぜになってる。
だから、廊下を歩いていると、時折雰囲気がふっと変わる瞬間がある。そこが継ぎ目になるわけだが、それでも良く調和が取れていて、それほど違和感はない。
ただ、和室なのにシャンデリアとか、なんだか色々と和洋折衷で面白い雰囲気があった。
残念だったのは、きちんとした解説付きの冊子が作られてなかったことか。
旧御用邸でここまでの規模で建物が残っているのは、田母沢と沼津ぐらいだと思うが、沼津は結構しっかりとした冊子を作っていて非常に参考になった。
だが、田母沢では写真集しか売ってなかった・・・
「謁見の間」の説明に、「『大正天皇実録』によれば・・・」みたいな説明文があったから、色々と資料は調べているみたいなんだがなあ・・・。勿体ない。
以下は、写真。
御用邸正門。工事中なのは、震災で石積みが緩んだためらしい。どこが問題だったのかはよくわからなかった。
御用邸の地図。右上の水色の部分が皇后のための区画。そこに皇太子は疎開していた。
皇太子が疎開していた建物。一番奥が寝室。元から日光にあった小林邸の一部。
その建物を外側から撮ったもの。
その左側の続きの建物。
その建物の前にあった天皇皇后による植樹(2001年)。ネットに覆われているから「引き抜いた奴でもいるんか?」とか思ったが、ただの鹿の食害対策だった。まあ枯らせるわけにはいかんということなんだろう。
庭にあった防空壕。やはりどの御用邸にもきちんと作られている。
昭和天皇の東京大空襲戦災地行幸史料 [天皇関係雑感]
『日韓相互認識』第4号、2011年3月、に掲載した資料紹介「宮内庁所蔵・昭和天皇の東京大空襲戦災地行幸史料」が、一橋大学リポジトリ(HERMES-IR)で公開されました。
前に日本史研究に書いた終戦奉告行幸の資料を調べていた際に、偶然見つけたものです。
1945年3月18日に昭和天皇が行った東京大空襲被災地への行幸の際に、随行した宮内官が書いた報告書の翻刻です。
興味がある方は是非お読みいただければと思います。
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/19090
前に日本史研究に書いた終戦奉告行幸の資料を調べていた際に、偶然見つけたものです。
1945年3月18日に昭和天皇が行った東京大空襲被災地への行幸の際に、随行した宮内官が書いた報告書の翻刻です。
興味がある方は是非お読みいただければと思います。
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/19090
3年前の手紙 [天皇関係雑感]
『歴史学研究』877号(2011年3月)に、安田浩氏の手による「法治主義への無関心と似非実証的論法―伊藤之雄「近代天皇は『魔力』のような権力を持っているのか」(本誌831号)に寄せて―」が掲載されました。
この論文が書かれるに至るきっかけは、私の伊藤氏の著書に対する書評でした。
ブログの記事を紹介していくと、
書評:伊藤之雄『昭和天皇と立憲君主制の崩壊』→『歴史学研究』2006年10月号掲載の私の書評
↓
伊藤之雄氏「近代天皇は「魔力」のような権力をもっているのか」について→その書評に対する伊藤氏の反論(『歴史学研究』2007年9月号)
↓
今回の安田氏の論文
私の書評の主旨は、伊藤氏による日英君主制比較は、政治過程が「似ている」ことを理由として制度が「似ている」という論理になっており、それは論理構造的におかしいだろうということでした。(制度から見れば、明らかに違いがある。)
ただ、伊藤氏には主旨をうまく受け取ってもらえず、反論は、私に対してというよりはむしろ、引用した安田浩氏の論考に対する批判がメインとなっていました。
そこで、安田氏が伊藤氏に対する批判の筆を取ったというのが、今回の安田氏の論文になります。
なお、念のため申し上げると、私と安田氏との間に師弟関係はありません。過去にお会いしたのも2度ぐらいかと思います。
もちろん、今回安田氏が論文を書くことについて、私は掲載されるまで一切知りませんでした。
本来ならば、私が反論をしておけば良かったということになるのかもしれません。
ただ、ブログにも書きましたが、伊藤氏が、反論があるなら「自らそれを実証するか、少なくとも具体例をあげて、拙著の元になった論文や拙著に対してコメントすべきであった」(18頁)と述べておられる以上、私が反論を歴研誌上に書くことは、おそらく建設的な議論にならないだろうと思い、反論は書きませんでした。
ただ、この反論を読んだ直後に、伊藤氏に私信を送りました。
今回、安田氏が論文を書かれた時に、この私信を読み返してみて、安田氏の論文の補足説明になるかなと思いました。
よって、ここにその私信を全文アップロードしておきます。
私信であるにも拘わらずアップロードする理由は
①伊藤氏の反論に対する再反論という形ではなく、私の書評の補足説明という形で書かれているということ。また、そのような書き方のため、伊藤氏からの再々反論は無く、研究頑張ってくださいといったような丁寧な葉書を頂いて、やりとりは終わっている。よって、伊藤氏の再々反論をアップロードしないとフェアではないというような事態はおきないということ。
②注記もきちんと入れており、論文に近似した形で書かれているということ。
③基本的には「伊藤氏は安田氏を誤解している」という内容であり、今回の安田氏の論文を補足するものであること。
④内容はすべて私が書いたものであり、著作権は私が有しているということ。また、内容的にも、特に伊藤氏を中傷したり貶めたりするようなことは一切書いていないこと(むしろ、若気の至りの文章が多くて、自分を貶めている感もある・・・)。
⑤伊藤氏の反論に対して私が再反論をしなかったのは、別に私が伊藤氏の論旨に納得したからというわけではないということを伝えておきたいと思ったこと。
となります。
また、このファイルの最終更新日が2007年9月11日なので、時効かなとも思います。
PDFにして上げておきます。
なお、上記のような経緯がありますので、あまり引用等で使わないでいただけるとありがたいと思います。(もちろん、論旨に対する批判がある場合は引用していただいて構いません。)
印刷はできますが、コピペはできないようにしてあります。
興味のある方はどうぞごらん下さい。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/h-sebata/koubunsyo/sebata_letter.pdf
この論文が書かれるに至るきっかけは、私の伊藤氏の著書に対する書評でした。
ブログの記事を紹介していくと、
書評:伊藤之雄『昭和天皇と立憲君主制の崩壊』→『歴史学研究』2006年10月号掲載の私の書評
↓
伊藤之雄氏「近代天皇は「魔力」のような権力をもっているのか」について→その書評に対する伊藤氏の反論(『歴史学研究』2007年9月号)
↓
今回の安田氏の論文
私の書評の主旨は、伊藤氏による日英君主制比較は、政治過程が「似ている」ことを理由として制度が「似ている」という論理になっており、それは論理構造的におかしいだろうということでした。(制度から見れば、明らかに違いがある。)
ただ、伊藤氏には主旨をうまく受け取ってもらえず、反論は、私に対してというよりはむしろ、引用した安田浩氏の論考に対する批判がメインとなっていました。
そこで、安田氏が伊藤氏に対する批判の筆を取ったというのが、今回の安田氏の論文になります。
なお、念のため申し上げると、私と安田氏との間に師弟関係はありません。過去にお会いしたのも2度ぐらいかと思います。
もちろん、今回安田氏が論文を書くことについて、私は掲載されるまで一切知りませんでした。
本来ならば、私が反論をしておけば良かったということになるのかもしれません。
ただ、ブログにも書きましたが、伊藤氏が、反論があるなら「自らそれを実証するか、少なくとも具体例をあげて、拙著の元になった論文や拙著に対してコメントすべきであった」(18頁)と述べておられる以上、私が反論を歴研誌上に書くことは、おそらく建設的な議論にならないだろうと思い、反論は書きませんでした。
ただ、この反論を読んだ直後に、伊藤氏に私信を送りました。
今回、安田氏が論文を書かれた時に、この私信を読み返してみて、安田氏の論文の補足説明になるかなと思いました。
よって、ここにその私信を全文アップロードしておきます。
私信であるにも拘わらずアップロードする理由は
①伊藤氏の反論に対する再反論という形ではなく、私の書評の補足説明という形で書かれているということ。また、そのような書き方のため、伊藤氏からの再々反論は無く、研究頑張ってくださいといったような丁寧な葉書を頂いて、やりとりは終わっている。よって、伊藤氏の再々反論をアップロードしないとフェアではないというような事態はおきないということ。
②注記もきちんと入れており、論文に近似した形で書かれているということ。
③基本的には「伊藤氏は安田氏を誤解している」という内容であり、今回の安田氏の論文を補足するものであること。
④内容はすべて私が書いたものであり、著作権は私が有しているということ。また、内容的にも、特に伊藤氏を中傷したり貶めたりするようなことは一切書いていないこと(むしろ、若気の至りの文章が多くて、自分を貶めている感もある・・・)。
⑤伊藤氏の反論に対して私が再反論をしなかったのは、別に私が伊藤氏の論旨に納得したからというわけではないということを伝えておきたいと思ったこと。
となります。
また、このファイルの最終更新日が2007年9月11日なので、時効かなとも思います。
PDFにして上げておきます。
なお、上記のような経緯がありますので、あまり引用等で使わないでいただけるとありがたいと思います。(もちろん、論旨に対する批判がある場合は引用していただいて構いません。)
印刷はできますが、コピペはできないようにしてあります。
興味のある方はどうぞごらん下さい。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/h-sebata/koubunsyo/sebata_letter.pdf
『同時代史研究』に論文が載りました。 [天皇関係雑感]
2010年11月刊行の『同時代史研究』第3号に私の論文(研究ノート)が掲載されました。
瀬畑源「昭和天皇「戦後巡幸」における天皇報道の論理―地方新聞の報道を手がかりとして―」
1946年から1951年(1954年の北海道は除く)に行われた昭和天皇の「戦後巡幸」(沖縄県を除く全都道府県を訪問した)を、地方新聞(県紙)の報道(社説と記者の感想)から量的分析をして、その各紙に共通する特徴を論じたものです。
はっきりいって、ツッコミどころ満載の論文だと思います。方法論も含め。
そもそも歴史学の論文と言って良いのかもかなり怪しい。正直、良く載せてくれたと思う。
ただ、自分で言うのも何ですが、これまで書いた論文の中では、一番読んでいて興味を引いてもらえるのではないかとは思います。
また、「自分らしい」論文だなとは思います。自分の性格がもろに出ているような気がします。
なお、今回の論文はまったく公文書とは関係ないです。
戦後巡幸の公文書を使って論じた部分は、博論には入っているのですが、まだ切り売りして発表していません。これも何とかしたいんですが。
下記に、英語での要約(本誌に収録)のために作った日本語版の要約を載せておきます。
学会誌ですが、日本経済評論社で販売しています。よろしければお手にとってくださいませ。
要約
本稿は、アジア・太平洋戦争敗戦後の新聞に見られる天皇記事を分析し、そこに表れる天皇像の特徴から、戦後の天皇報道に通底する論理を抽出しようとする試みである。この解明のために、昭和天皇の「戦後巡幸」における地方新聞の「社説」及び「記者の感想」の量的分析を行う。
地方新聞の戦後巡幸における天皇報道は、「戦前」からの断絶を基礎とし、「人間」としての天皇が国民と直結する姿こそ新憲法における「象徴」天皇の理想像であるとした。そして、戦後巡幸で新聞記者達が報じ続けた「一人の人間」として「国民と共にある」昭和天皇の姿が、憲法第一条の「国民の総意」としての「国民統合の象徴」という概念の内実を埋めていった。
この記者達の「人間宣言」や「憲法第一条」を論拠とした報道方針は、敗戦後の取材規制の緩和や、取材の際に見た天皇の姿という「実感」によって支えられていた。また彼らは、「民主化」を啓蒙する担い手であるという強い自負を持ち、新憲法に正当性を置いた価値観を、指導者層だけでなく奉迎者にまでも守ることを求めていった。そのため、天皇制を批判する勢力だけでなく、天皇制の権威を利用しようとする勢力をも批判の対象としていった。彼らにとって憲法第一条に描かれた天皇制は絶対的なものであり、これを守ることが戦前への回帰を妨げ、社会の安定を図るために必要なことであったのである。
追記(11/28)
目次が学会ウェブサイトに載ったので転載しておきます。
論文
谷本清とヒロシマ・ピース・センター――占領下広島における原爆被害認識に関する考察 川口 悠子 3-18
初期東映動画における映像表現と制作体制の沿革 木村 智哉 19-34
サハリン残留韓国・朝鮮人の帰還をめぐる日韓の対応と認識――1950~70年代の交渉過程を中心に 玄 武岩 35-50
研究ノート
昭和天皇「戦後巡幸」における天皇報道の論理――地方新聞の報道を手がかりとして 瀬畑 源 51-63
研究動向
韓国における日本近現代史研究の現況――「同時代史」の観点から 河 棕文 64-72
同時代史の現場 ドキュメンタリーがつなぐ過去・現在・未来
「NHKスペシャル 日本海軍400時間の証言」取材・製作の軌跡 小貫 武 73-83
わがドキュメンタリー同時代史――映画は出会いから始まる 西山 正啓 83-92
書評
大門正克著『戦争と戦後を生きる』(「全集 日本の歴史」第15巻) 長 志珠絵 93-97
横浜国際関係史研究会・横浜開港資料館編『GHQ情報課長ドン・ブラウンとその時代――昭和の日本とアメリカ』 小倉 裕児 98-102
吉次公介著『池田政権期の日本外交と冷戦――戦後日本外交の座標軸1960-1964』 池田 慎太郎 103-107
伊藤正直著『戦後日本の対外金融――360円レートの成立と終焉』 高橋 亘 108-112
森武麿著『1950年代と地域社会――神奈川県小田原地域を中心として』 荒川 章二 113-117
文献紹介
中北浩爾著『日本労働政治の国際関係史1945-1964――社会民主主義という選択肢』 三宅 明正 118
福永文夫著『大平正芳――「戦後保守」とは何か』 下村 太一 119
西川祐子・杉本星子編著『共同研究 戦後の生活記録にまなぶ――鶴見和子文庫との対話・未来への通信』 辻 智子 120
永原陽子編著『「植民地責任」論――脱植民地化の比較史』 庵逧 由香 121
成田龍一著『戦後思想家としての司馬遼太郎』 和田 悠 122
屋嘉比収著『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす――記憶をいかに継承するか』 坂本 昇 123
宋連玉著『脱帝国のフェミニズムを求めて――朝鮮女性と植民地主義』 及川 英二郎 124
瀬畑源「昭和天皇「戦後巡幸」における天皇報道の論理―地方新聞の報道を手がかりとして―」
1946年から1951年(1954年の北海道は除く)に行われた昭和天皇の「戦後巡幸」(沖縄県を除く全都道府県を訪問した)を、地方新聞(県紙)の報道(社説と記者の感想)から量的分析をして、その各紙に共通する特徴を論じたものです。
はっきりいって、ツッコミどころ満載の論文だと思います。方法論も含め。
そもそも歴史学の論文と言って良いのかもかなり怪しい。正直、良く載せてくれたと思う。
ただ、自分で言うのも何ですが、これまで書いた論文の中では、一番読んでいて興味を引いてもらえるのではないかとは思います。
また、「自分らしい」論文だなとは思います。自分の性格がもろに出ているような気がします。
なお、今回の論文はまったく公文書とは関係ないです。
戦後巡幸の公文書を使って論じた部分は、博論には入っているのですが、まだ切り売りして発表していません。これも何とかしたいんですが。
下記に、英語での要約(本誌に収録)のために作った日本語版の要約を載せておきます。
学会誌ですが、日本経済評論社で販売しています。よろしければお手にとってくださいませ。
要約
本稿は、アジア・太平洋戦争敗戦後の新聞に見られる天皇記事を分析し、そこに表れる天皇像の特徴から、戦後の天皇報道に通底する論理を抽出しようとする試みである。この解明のために、昭和天皇の「戦後巡幸」における地方新聞の「社説」及び「記者の感想」の量的分析を行う。
地方新聞の戦後巡幸における天皇報道は、「戦前」からの断絶を基礎とし、「人間」としての天皇が国民と直結する姿こそ新憲法における「象徴」天皇の理想像であるとした。そして、戦後巡幸で新聞記者達が報じ続けた「一人の人間」として「国民と共にある」昭和天皇の姿が、憲法第一条の「国民の総意」としての「国民統合の象徴」という概念の内実を埋めていった。
この記者達の「人間宣言」や「憲法第一条」を論拠とした報道方針は、敗戦後の取材規制の緩和や、取材の際に見た天皇の姿という「実感」によって支えられていた。また彼らは、「民主化」を啓蒙する担い手であるという強い自負を持ち、新憲法に正当性を置いた価値観を、指導者層だけでなく奉迎者にまでも守ることを求めていった。そのため、天皇制を批判する勢力だけでなく、天皇制の権威を利用しようとする勢力をも批判の対象としていった。彼らにとって憲法第一条に描かれた天皇制は絶対的なものであり、これを守ることが戦前への回帰を妨げ、社会の安定を図るために必要なことであったのである。
追記(11/28)
目次が学会ウェブサイトに載ったので転載しておきます。
論文
谷本清とヒロシマ・ピース・センター――占領下広島における原爆被害認識に関する考察 川口 悠子 3-18
初期東映動画における映像表現と制作体制の沿革 木村 智哉 19-34
サハリン残留韓国・朝鮮人の帰還をめぐる日韓の対応と認識――1950~70年代の交渉過程を中心に 玄 武岩 35-50
研究ノート
昭和天皇「戦後巡幸」における天皇報道の論理――地方新聞の報道を手がかりとして 瀬畑 源 51-63
研究動向
韓国における日本近現代史研究の現況――「同時代史」の観点から 河 棕文 64-72
同時代史の現場 ドキュメンタリーがつなぐ過去・現在・未来
「NHKスペシャル 日本海軍400時間の証言」取材・製作の軌跡 小貫 武 73-83
わがドキュメンタリー同時代史――映画は出会いから始まる 西山 正啓 83-92
書評
大門正克著『戦争と戦後を生きる』(「全集 日本の歴史」第15巻) 長 志珠絵 93-97
横浜国際関係史研究会・横浜開港資料館編『GHQ情報課長ドン・ブラウンとその時代――昭和の日本とアメリカ』 小倉 裕児 98-102
吉次公介著『池田政権期の日本外交と冷戦――戦後日本外交の座標軸1960-1964』 池田 慎太郎 103-107
伊藤正直著『戦後日本の対外金融――360円レートの成立と終焉』 高橋 亘 108-112
森武麿著『1950年代と地域社会――神奈川県小田原地域を中心として』 荒川 章二 113-117
文献紹介
中北浩爾著『日本労働政治の国際関係史1945-1964――社会民主主義という選択肢』 三宅 明正 118
福永文夫著『大平正芳――「戦後保守」とは何か』 下村 太一 119
西川祐子・杉本星子編著『共同研究 戦後の生活記録にまなぶ――鶴見和子文庫との対話・未来への通信』 辻 智子 120
永原陽子編著『「植民地責任」論――脱植民地化の比較史』 庵逧 由香 121
成田龍一著『戦後思想家としての司馬遼太郎』 和田 悠 122
屋嘉比収著『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす――記憶をいかに継承するか』 坂本 昇 123
宋連玉著『脱帝国のフェミニズムを求めて――朝鮮女性と植民地主義』 及川 英二郎 124
映画「皇太子の花嫁」のパンフレット [天皇関係雑感]
久しぶりの皇室ネタを軽く。あまりに公文書管理ばっかりなので少し気分を変えたいかなと。
先日、女優の池内淳子さんが亡くなった。
その際の記事に、初出演の映画が「皇太子の花嫁」であったということを目にして、久しぶりにこの映画について思い出した。
1950年代の半ばから後半にかけて、皇太子(現天皇)の花嫁予想が各週刊誌で活発に行われた。
この映画は1955年に新東宝が作ったもので、花嫁のスクープを狙う記者たちの姿に恋愛モノをかけた話である。
原案に皇室ジャーナリストのさきがけ(宮内記者クラブに属さない記者)である河原敏明も関係しているので、あらすじを見ていても、当時の皇太子妃予想記者達の姿の一端がかいま見える。
この池内さんの話をきっかけに、「皇太子の花嫁」の情報を調べていたら、amazonでパンフレットが古本として売られていたのを発見した。
値段もそう高くなかったので、とりあえず購入した。
で、これがその現物の表紙。
右が「皇太子に似ている青年」で、左がヒロインの女性記者役の島崎雪子。
中に詳しいあらすじがついていて、もっと細かい内容がわかった。
基本的に、この話は「花嫁」候補を追う話がメインであり、皇太子自体が出てくるわけではない。
ただ、ヒロインの女性記者が「皇太子に似ている青年」を「皇太子」と「勘違い」してインタビューするというシーンがあるらしい。
そして、この「皇太子に似ている青年」役のことが、別のページに詳しく書いてある。
これによれば、その役を演じたのは、市川小太夫(2代目)の次男の喜熨斗勝であり、どうも皇太子のマネまで映画の中でやっていたらしい。
表紙の写真を見ても、当時の皇太子の髪型や服装、カメラまでもがきちんと再現されている。
また、小ネタとして、喜熨斗勝が格好良かったので、若い女性の見学者が撮影所に増えたが、結局主演の高島忠夫の方が人気があって、「肝心の”皇太子さま”はそっちのけ」であったらしい。
ちなみに、高島忠夫のコメントは「ボクは皇太子さまと競争したってとても勝負になりません」と謙遜したとのこと。
さて、この映画、実はDVD化などがどうもされていないようであり、私自身もまだ見たことがない。
なぜされてないのかはよくわからない。
倒産した新東宝の権利は国際放映に引き継がれているようだし、別に著作権が行方不明になっているということではないと思う。
ネット上で見れるあらすじをみても、どうもそのあたりははっきりしない。
ただ「売れるコンテンツではない」というだけの話かもしれないけど。
そこで気になることは、実はその喜熨斗勝のことである。
実は映画のデータベースを見ると、この役は「若宮政彦」という名前になってる。
つまり、名前が違うのだ。
なお、喜熨斗も若宮もこの映画以外で名前を見ない。
また、喜熨斗勝氏はどうやら現在は歌舞伎研究者・フリーアナウンサーになっているようで、役者の道には進まなかったようである。
これはどういうことなんだろう?やはり当時、なんらかのもめるような事態がおきたんだろうか?別にそういう裏はないのか。
私自身、映画史は全くのド素人なので、このあたりはわからない。
でも、この映画と、皇太子の「学友」であった藤島泰輔が皇太子とその友人達の人物関係を描いた「孤独の人」の映画版も、未だにDVD化されていない。
このあたりは、やはり「菊タブー」がまだあるのかなあと、天皇制研究者としては勘ぐってしまうところはあったりする。
最後に、池内さんの写真(たぶん。内容とシーンからおそらくこれだと)。携帯で取ったので解像度がいまいち。
パンフで見るともっとくっきり写ってます。役柄は皇太子の「花嫁」の有力候補であった「桂百合子姫」。
このパンフに「池田淳子」(本名?誤植?)と紹介された記事の切り抜きも入ってます。
先日、女優の池内淳子さんが亡くなった。
その際の記事に、初出演の映画が「皇太子の花嫁」であったということを目にして、久しぶりにこの映画について思い出した。
1950年代の半ばから後半にかけて、皇太子(現天皇)の花嫁予想が各週刊誌で活発に行われた。
この映画は1955年に新東宝が作ったもので、花嫁のスクープを狙う記者たちの姿に恋愛モノをかけた話である。
原案に皇室ジャーナリストのさきがけ(宮内記者クラブに属さない記者)である河原敏明も関係しているので、あらすじを見ていても、当時の皇太子妃予想記者達の姿の一端がかいま見える。
この池内さんの話をきっかけに、「皇太子の花嫁」の情報を調べていたら、amazonでパンフレットが古本として売られていたのを発見した。
値段もそう高くなかったので、とりあえず購入した。
で、これがその現物の表紙。
右が「皇太子に似ている青年」で、左がヒロインの女性記者役の島崎雪子。
中に詳しいあらすじがついていて、もっと細かい内容がわかった。
基本的に、この話は「花嫁」候補を追う話がメインであり、皇太子自体が出てくるわけではない。
ただ、ヒロインの女性記者が「皇太子に似ている青年」を「皇太子」と「勘違い」してインタビューするというシーンがあるらしい。
そして、この「皇太子に似ている青年」役のことが、別のページに詳しく書いてある。
これによれば、その役を演じたのは、市川小太夫(2代目)の次男の喜熨斗勝であり、どうも皇太子のマネまで映画の中でやっていたらしい。
表紙の写真を見ても、当時の皇太子の髪型や服装、カメラまでもがきちんと再現されている。
また、小ネタとして、喜熨斗勝が格好良かったので、若い女性の見学者が撮影所に増えたが、結局主演の高島忠夫の方が人気があって、「肝心の”皇太子さま”はそっちのけ」であったらしい。
ちなみに、高島忠夫のコメントは「ボクは皇太子さまと競争したってとても勝負になりません」と謙遜したとのこと。
さて、この映画、実はDVD化などがどうもされていないようであり、私自身もまだ見たことがない。
なぜされてないのかはよくわからない。
倒産した新東宝の権利は国際放映に引き継がれているようだし、別に著作権が行方不明になっているということではないと思う。
ネット上で見れるあらすじをみても、どうもそのあたりははっきりしない。
ただ「売れるコンテンツではない」というだけの話かもしれないけど。
そこで気になることは、実はその喜熨斗勝のことである。
実は映画のデータベースを見ると、この役は「若宮政彦」という名前になってる。
つまり、名前が違うのだ。
なお、喜熨斗も若宮もこの映画以外で名前を見ない。
また、喜熨斗勝氏はどうやら現在は歌舞伎研究者・フリーアナウンサーになっているようで、役者の道には進まなかったようである。
これはどういうことなんだろう?やはり当時、なんらかのもめるような事態がおきたんだろうか?別にそういう裏はないのか。
私自身、映画史は全くのド素人なので、このあたりはわからない。
でも、この映画と、皇太子の「学友」であった藤島泰輔が皇太子とその友人達の人物関係を描いた「孤独の人」の映画版も、未だにDVD化されていない。
このあたりは、やはり「菊タブー」がまだあるのかなあと、天皇制研究者としては勘ぐってしまうところはあったりする。
最後に、池内さんの写真(たぶん。内容とシーンからおそらくこれだと)。携帯で取ったので解像度がいまいち。
パンフで見るともっとくっきり写ってます。役柄は皇太子の「花嫁」の有力候補であった「桂百合子姫」。
このパンフに「池田淳子」(本名?誤植?)と紹介された記事の切り抜きも入ってます。
ミッチーブームと館林 [天皇関係雑感]
博論が終わったので気分転換に旅でもと思って群馬の館林に行ってきた。
しかし、結局研究素材を探しに行っているので、はたして気分転換なのかは疑わしいが。
今回館林に行ったのは、「ミッチーブームが地方に残したものは何か?」ということを少し調べてみたかったからだ。
ネタ元は、『週刊文春』1959年4月20日と『週刊サンケイ』1959年4月19日の館林ルポ。
順を追って説明してみよう。
まず、ことの起こりは1958年11月27日の皇太子(現天皇)の婚約者として正田美智子(現皇后)が決定したということから始まる。
この発表で館林は大きく注目されることになる。
それは、美智子の先祖は館林出身であり、かつ彼女自身が戦争中に短期間ではあるが館林に疎開をしていたためである。
正田家は17世紀に館林に移住し、米穀商として成功を収めた。明治期に入ると醤油業も始めていった。
美智子の祖父・貞一郎は正田本家の次男の息子として生まれ、館林で製粉業を起こした。これが今の日清製粉である。
貞一郎の三男・英三郎が日清製粉を継ぐことになるが、この英三郎の娘が美智子である。
このため、館林は、正田家の実家や正田醤油、美智子が疎開時に通っていた小学校などが観光コースとなったりするなど、一大観光ブームが巻き起こる。
さらに、館林市も提灯行列やら花火大会など、次々とイベントを行っていった。また織物組合は「ミッチー紬」を販売して一儲けをたくらんだ。
そして一番のメインになったのが、「記念館」の建設である。
上記した週刊誌の記事は、この記念館をめぐるドタバタを描いたものである。
館林市は正田家からの寄付金をあてにして1億5千万の予算を組んで、公会堂を作ろうと計画した。
しかし、「ご成婚」を商売に利用しないということを決めていた正田家は、全くお金を出そうとしなかったため、計画が進まなくなった。
要するに「ミッチーブームに踊らされた連中」として館林は取り上げられたのである。
その後の話は特に書かれていない。それに実際にどのような経緯があったのかについては、詳しくはわかっていない。
前からこの記事にひっかかりがあったので、とりあえず館林に行ってみようと思った。
さて、では何がわかったかということだが、いまブログに書いているということからわかるように、論文になるほどのネタは見つからなかった。
だが、なぜ当時館林が公会堂を作ろうとしたのかということはわかった。
この当時、館林には公会堂が存在しなかった。そのため、何かイベントを行うときは小学校の講堂を使うといった不便を強いられていた。
そして、近郊にある桐生や栃木、佐野に公会堂に類する施設のあったことが、館林にとっては気になっていたらしい。
特に、同時期に完成した桐生市の産業文化会館(2億円かけたらしい)が館林にとっては「ライバルにやられた」みたいな感じがあったようだ。
そこで、降ってわいたミッチーブームに乗じて、この際公会堂を作ってしまえという話になったようである。
当時の資料を見ていると、まずは桐生の規模を目指そうとした(予算1億2千万)ようだ。
だが、寄付金が思うように集まらなかったため、予算を4000万まで縮小した。そのため、同規模の佐野や栃木に議員が視察に出かけている。
しかも、記念館建設のため、日の丸を掲げる旗竿を10万本作って全国に販売し、その利益を建設の足しにしようとしていたらしい。
そしてとりあえず1万本作ることになって製造したが、1959年6月の段階で1300本しか売れなかった。たまたま、まだ3000本しか製造していなかったようだが、この計画のずさんさについて議会で問題になっている。
なおこの追及を受けた当時の市の総務課長は、「熱がさめかかっておる当委員会(注:記念事業委員会)の事務の担当者といたしまして本当にしりをはたかれた思いで眠むけも一瞬にしてとんだのであります」という答弁をしており、要するに4月の結婚式以後、やる気を失っていた姿が容易に想像できる。
他にも議事録によると、寄付金は日清製粉、正田醤油、東武鉄道から各1千万~2千万ずつもらおうと画策していたようである。
実際には大口の寄付は市内の名望家7人が100万ずつ出したぐらいだったようだ。
また、上記の文春とサンケイの記事は、地元でも話題になったようである。
館林のローカル新聞『両毛春秋』は、結婚式の後に次のように書いた。
「処でそれはそれとしてミッチーの婚約で決定した記念事業の方は忘れては困る。それでなくてもくだらない週刊誌につまらない記事を書かれたのだから、意地にでも一日でも早く記念事業を実現したいものだ。〔中略〕ここでやらなきゃ、館林の恥になる。つまらぬ週刊誌やそれを読んだ人にそれ見た事かと笑われる。」
でも、その後も記念館建設は迷走を続けたようだ。1959年の末には、結局改築する市役所と併設することになり、記念事業委員会は解散した。
しかもそのころに、公共工事をめぐるゴタゴタが起きて議会が紛糾するなど、建設を進められるような状況ではなかったらしい。
結局公会堂が作られたのは、1974年になってからであった。これが現在の館林市文化会館である。
建てられた理由は「市制施行20年記念事業」としてであった。つまり、奉祝事業であったことは忘れ去られたのである。
なお、館林市が行った奉祝事業はもう一つあった。
それは「しらかが(白加賀)」という梅の木の苗木を全家庭に配布するというものである。
これについては記念館とは違って、きちんと実行されたようである。
しかし、ネットで調べてもそういうことをやったという話は出てこない。
館林の酒造業者が白加賀を使って梅酒を造っているみたいだが、特に御成婚に関係があったというキャッチフレーズは見ることはできない。
こちらも、記憶の奥底に忘れられたということなんだろう。
結局、ミッチーブームは、何も館林に残さなかったのだろうか。
もちろんそこに住む人たちの心の中はわからない。
ただ、館林の場合、盛り上がる中心にいる正田家が、奉祝から一歩引いていたことが、強烈な記憶を残すことを妨げたということはあったように思う。
館林の正田醤油の研究所のそばに、昔の本社屋を利用した記念館が建っている。
そこには正田家の系図が飾ってあるのだが、美智子の名前は無い。父の英三郎の代までしか分家は記載されていない。
そして記念館の中には、当時の社長と美智子が一緒に写っている写真や一族と写っている写真が何の説明もなくひっそりと飾ってある。
わかる人にはそれがなんだかわかる。それで十分というのが正田醤油にとっての企業戦略なんだろう。
天皇制の支持者の多くは、別に声高に天皇への支持を語りはしない。「わかる人にわかればよい」ということ、なんだかそういうことのような気がする。
結局館林に吹いたミッチーブームという嵐は、1年弱の「うたかたの夢」として消えていったのだろう。
その現象だけを見て、天皇制の支持基盤を検討しようとするのは、やはり簡単ではない。
館林の例はおそらく館林固有の問題であって、あまり一般化はできないように思う。
ミッチーブームの影響については、また機会があれば調べてみたい。積み重ねていけば、なにか見えるものがあるかもしれない。
しかし、結局研究素材を探しに行っているので、はたして気分転換なのかは疑わしいが。
今回館林に行ったのは、「ミッチーブームが地方に残したものは何か?」ということを少し調べてみたかったからだ。
ネタ元は、『週刊文春』1959年4月20日と『週刊サンケイ』1959年4月19日の館林ルポ。
順を追って説明してみよう。
まず、ことの起こりは1958年11月27日の皇太子(現天皇)の婚約者として正田美智子(現皇后)が決定したということから始まる。
この発表で館林は大きく注目されることになる。
それは、美智子の先祖は館林出身であり、かつ彼女自身が戦争中に短期間ではあるが館林に疎開をしていたためである。
正田家は17世紀に館林に移住し、米穀商として成功を収めた。明治期に入ると醤油業も始めていった。
美智子の祖父・貞一郎は正田本家の次男の息子として生まれ、館林で製粉業を起こした。これが今の日清製粉である。
貞一郎の三男・英三郎が日清製粉を継ぐことになるが、この英三郎の娘が美智子である。
このため、館林は、正田家の実家や正田醤油、美智子が疎開時に通っていた小学校などが観光コースとなったりするなど、一大観光ブームが巻き起こる。
さらに、館林市も提灯行列やら花火大会など、次々とイベントを行っていった。また織物組合は「ミッチー紬」を販売して一儲けをたくらんだ。
そして一番のメインになったのが、「記念館」の建設である。
上記した週刊誌の記事は、この記念館をめぐるドタバタを描いたものである。
館林市は正田家からの寄付金をあてにして1億5千万の予算を組んで、公会堂を作ろうと計画した。
しかし、「ご成婚」を商売に利用しないということを決めていた正田家は、全くお金を出そうとしなかったため、計画が進まなくなった。
要するに「ミッチーブームに踊らされた連中」として館林は取り上げられたのである。
その後の話は特に書かれていない。それに実際にどのような経緯があったのかについては、詳しくはわかっていない。
前からこの記事にひっかかりがあったので、とりあえず館林に行ってみようと思った。
さて、では何がわかったかということだが、いまブログに書いているということからわかるように、論文になるほどのネタは見つからなかった。
だが、なぜ当時館林が公会堂を作ろうとしたのかということはわかった。
この当時、館林には公会堂が存在しなかった。そのため、何かイベントを行うときは小学校の講堂を使うといった不便を強いられていた。
そして、近郊にある桐生や栃木、佐野に公会堂に類する施設のあったことが、館林にとっては気になっていたらしい。
特に、同時期に完成した桐生市の産業文化会館(2億円かけたらしい)が館林にとっては「ライバルにやられた」みたいな感じがあったようだ。
そこで、降ってわいたミッチーブームに乗じて、この際公会堂を作ってしまえという話になったようである。
当時の資料を見ていると、まずは桐生の規模を目指そうとした(予算1億2千万)ようだ。
だが、寄付金が思うように集まらなかったため、予算を4000万まで縮小した。そのため、同規模の佐野や栃木に議員が視察に出かけている。
しかも、記念館建設のため、日の丸を掲げる旗竿を10万本作って全国に販売し、その利益を建設の足しにしようとしていたらしい。
そしてとりあえず1万本作ることになって製造したが、1959年6月の段階で1300本しか売れなかった。たまたま、まだ3000本しか製造していなかったようだが、この計画のずさんさについて議会で問題になっている。
なおこの追及を受けた当時の市の総務課長は、「熱がさめかかっておる当委員会(注:記念事業委員会)の事務の担当者といたしまして本当にしりをはたかれた思いで眠むけも一瞬にしてとんだのであります」という答弁をしており、要するに4月の結婚式以後、やる気を失っていた姿が容易に想像できる。
他にも議事録によると、寄付金は日清製粉、正田醤油、東武鉄道から各1千万~2千万ずつもらおうと画策していたようである。
実際には大口の寄付は市内の名望家7人が100万ずつ出したぐらいだったようだ。
また、上記の文春とサンケイの記事は、地元でも話題になったようである。
館林のローカル新聞『両毛春秋』は、結婚式の後に次のように書いた。
「処でそれはそれとしてミッチーの婚約で決定した記念事業の方は忘れては困る。それでなくてもくだらない週刊誌につまらない記事を書かれたのだから、意地にでも一日でも早く記念事業を実現したいものだ。〔中略〕ここでやらなきゃ、館林の恥になる。つまらぬ週刊誌やそれを読んだ人にそれ見た事かと笑われる。」
でも、その後も記念館建設は迷走を続けたようだ。1959年の末には、結局改築する市役所と併設することになり、記念事業委員会は解散した。
しかもそのころに、公共工事をめぐるゴタゴタが起きて議会が紛糾するなど、建設を進められるような状況ではなかったらしい。
結局公会堂が作られたのは、1974年になってからであった。これが現在の館林市文化会館である。
建てられた理由は「市制施行20年記念事業」としてであった。つまり、奉祝事業であったことは忘れ去られたのである。
なお、館林市が行った奉祝事業はもう一つあった。
それは「しらかが(白加賀)」という梅の木の苗木を全家庭に配布するというものである。
これについては記念館とは違って、きちんと実行されたようである。
しかし、ネットで調べてもそういうことをやったという話は出てこない。
館林の酒造業者が白加賀を使って梅酒を造っているみたいだが、特に御成婚に関係があったというキャッチフレーズは見ることはできない。
こちらも、記憶の奥底に忘れられたということなんだろう。
結局、ミッチーブームは、何も館林に残さなかったのだろうか。
もちろんそこに住む人たちの心の中はわからない。
ただ、館林の場合、盛り上がる中心にいる正田家が、奉祝から一歩引いていたことが、強烈な記憶を残すことを妨げたということはあったように思う。
館林の正田醤油の研究所のそばに、昔の本社屋を利用した記念館が建っている。
そこには正田家の系図が飾ってあるのだが、美智子の名前は無い。父の英三郎の代までしか分家は記載されていない。
そして記念館の中には、当時の社長と美智子が一緒に写っている写真や一族と写っている写真が何の説明もなくひっそりと飾ってある。
わかる人にはそれがなんだかわかる。それで十分というのが正田醤油にとっての企業戦略なんだろう。
天皇制の支持者の多くは、別に声高に天皇への支持を語りはしない。「わかる人にわかればよい」ということ、なんだかそういうことのような気がする。
結局館林に吹いたミッチーブームという嵐は、1年弱の「うたかたの夢」として消えていったのだろう。
その現象だけを見て、天皇制の支持基盤を検討しようとするのは、やはり簡単ではない。
館林の例はおそらく館林固有の問題であって、あまり一般化はできないように思う。
ミッチーブームの影響については、また機会があれば調べてみたい。積み重ねていけば、なにか見えるものがあるかもしれない。
東京都庭園美術館(旧朝香宮邸) [天皇関係雑感]
先日、友人と会うために都心に行ったので、東京都庭園美術館へ行ってきた。
ここは、皇族の朝香宮の邸宅だったところ。戦後は吉田茂が外相・首相公邸として使用し、その後紆余曲折を経て庭園美術館になった。
普段は内部で展覧会が行われているので撮影禁止だが、毎春「建物」を展示する期間があって、その時だけ撮影がOKになっている。
昭和初期のアールデコ様式全開の建物としては有名なものであるので、前から一度行ってみたいと思っていた。
あんまり美術には詳しくないけど、三枚目の写真の下の方に写っているラジエーターのカバーとか、各部屋の照明とかが全部異なるデザインですごい凝り方をしてる。戦前の皇族の金銭的な豊かさを感じる。
建物自体がすごくかっこいいし、きちんと個人の家としての機能も兼ね備えている。吉田茂が気に入るのもむべなるかなという感じだ。
さて、この時期にこういうものを見に行っている訳なので、当然博論は3月に出せていない・・・。
次は6月末。さすがにこれには間に合いそうな感じ。博論を書いたら通常の更新頻度に何とか戻したいです。
ここは、皇族の朝香宮の邸宅だったところ。戦後は吉田茂が外相・首相公邸として使用し、その後紆余曲折を経て庭園美術館になった。
普段は内部で展覧会が行われているので撮影禁止だが、毎春「建物」を展示する期間があって、その時だけ撮影がOKになっている。
昭和初期のアールデコ様式全開の建物としては有名なものであるので、前から一度行ってみたいと思っていた。
あんまり美術には詳しくないけど、三枚目の写真の下の方に写っているラジエーターのカバーとか、各部屋の照明とかが全部異なるデザインですごい凝り方をしてる。戦前の皇族の金銭的な豊かさを感じる。
建物自体がすごくかっこいいし、きちんと個人の家としての機能も兼ね備えている。吉田茂が気に入るのもむべなるかなという感じだ。
さて、この時期にこういうものを見に行っている訳なので、当然博論は3月に出せていない・・・。
次は6月末。さすがにこれには間に合いそうな感じ。博論を書いたら通常の更新頻度に何とか戻したいです。
「愛子さま欠席問題」について思う [天皇関係雑感]
昨日の読売新聞の記事。引用します。
愛子さまが今週初めから学校欠席、不安訴え
3月5日16時51分配信 読売新聞
宮内庁の野村一成・東宮大夫は5日、皇太子ご夫妻の長女で学習院初等科2年の愛子さま(8)が、腹痛や学校生活の不安を訴え、今週初めから学校を欠席されていることを明らかにした。
野村大夫によると、愛子さまは、2月22日から37度台の発熱など風邪の症状で欠席。今週になって症状は回復し、ご夫妻も促して3月2日に一度登校した。しかし、その前後から腹痛や登校への不安感を訴え、登校したいとの意欲を示しながらも、3日以降、欠席が続いている。理由として複数の男児の乱暴な行動を挙げられたという。野村大夫は「公の立場の方が1週間学校に行かれていないということで説明した」としている。
学習院の説明によると、昨年7月から11月にかけ、2年生の別のクラスの男児数人が、かばんを投げたり、大声で騒いだりして学年全体が荒れていた時期があり、保護者からも苦情が寄せられた。愛子さまは2日は4時限目の国語の授業だけ出席したが、帰り際、以前騒いでいた男児2人が急に走り出し、ぶつかりそうになった。学習院は「以前のこともあり、怖い思いをされたのではないか」としている。
学習院の東園基政・常務理事は「他の迷惑になる児童がいたことは事実だが、現在は沈静化している。愛子さまが直接、いじめや暴力の対象になったことはないが、3年生のクラス替えなどの際に配慮し、保護者にも規律順守を改めて呼びかけるなど早急に対応したい」と話している。
(引用終)
おそらく今頃、各週刊誌の記者は原因追及のために飛び回っているのだろうなあと想像する。たぶん来週には各週刊誌にさまざまな論評が掲載されることでしょう。
今回あえて東宮職から自発的に問題を公開したのは、先に公表して自分たちはこの問題を把握してしっかり対応しようとしているということを示して、有利な第一印象を付けておきたいということがあるのだろう。
また、おそらく隠しておいても、長期欠席していることから色々と勘ぐられるし、さらに学習院関係者や同級生の親などからの週刊誌への情報提供などで必ず記事になるだろうから、後で追いつめられて出すよりはという考え方もあったのだろう。
今の情報では実際に「いじめ」があったのかはよくわからないが、ただ「登校拒否」になるということは相当に厳しい状況があったことは推測できる。
ただ、雅子妃バッシングの続く中では、ひょっとすると「たいしたことではないのに登校拒否を許すなんて皇太子夫妻は甘い」みたいな論調も出てくることが予想される。
ただ、あくまでも推測であることを前置きしておくが、要するに学習院ですら「皇族への敬意」というものが薄れているということなのかなと思う。
小学校低学年の子供は、どこまで皇族というものを理解しているかはわからない。でも、例えば親が皇族への敬意を持っているような家庭に育った子供なら、少なくとも同学年の皇族に対して、問題になるレベルの「暴力」という行動にいきつくことはないだろうと思うのだ。
もちろん親への反抗で逆に暴力に走る可能性もありうるが、その場合は事実を知った際に親が全力で止めるだろう。
特に、いまの愛子内親王と同学年の生徒達は、彼女と同級生になる可能性があるとわかっていて学習院の入学試験を受けているはずなのだ。少なくとも、皇室に対してまったく無関心、もしくは反皇室的な家庭に育ったとは思えない。
こうなると、やはり雅子妃バッシングの影響もあるんだろうか・・・。
最近、学習院に通わない皇族が増えてきたのも、結局はそういった学習院気質の変化に気づいているということなのかもしれない。「学習院に通うメリット」がなくなってきたということかなあと。
来週の週刊誌は注意して見てみたいと思います。
追記(3/11)
とりあえず主要な5誌を立ち読みした。さらっと読んだだけなので勘違いもあるかもしれないが、各誌スタンスの違いがあって面白い。
『女性自身』・・・完全に皇太子夫妻擁護一色。良くも悪くも当たり障りなく。
『週刊女性』・・・皇太子夫妻擁護が基本だが、批判する声もさらっと紹介。
『女性セブン』・・・上記2誌よりも発売が2日遅いせいか、非常に詳細な記事。一番読み応えがあったしバランスもそこそこ取れていたような。
『週刊文春』・・・元々皇太子夫妻擁護派なのでバランスを取ろうとしている。学習院批判が強い。学習院関係者の話はかなり詳しく聞けている印象。
『週刊新潮』・・・雅子妃バッシングの筆頭だけあり、悪意すら感じる皇太子夫妻・東宮職批判が強い。愛子内親王の素行の話も取り上げており、被害者にも問題があったのではと取られてもおかしくない記事で、さすがにこれは引く。
なかなかこの話は長引きそうな感じだ。新学期からどうなるか・・・
愛子さまが今週初めから学校欠席、不安訴え
3月5日16時51分配信 読売新聞
宮内庁の野村一成・東宮大夫は5日、皇太子ご夫妻の長女で学習院初等科2年の愛子さま(8)が、腹痛や学校生活の不安を訴え、今週初めから学校を欠席されていることを明らかにした。
野村大夫によると、愛子さまは、2月22日から37度台の発熱など風邪の症状で欠席。今週になって症状は回復し、ご夫妻も促して3月2日に一度登校した。しかし、その前後から腹痛や登校への不安感を訴え、登校したいとの意欲を示しながらも、3日以降、欠席が続いている。理由として複数の男児の乱暴な行動を挙げられたという。野村大夫は「公の立場の方が1週間学校に行かれていないということで説明した」としている。
学習院の説明によると、昨年7月から11月にかけ、2年生の別のクラスの男児数人が、かばんを投げたり、大声で騒いだりして学年全体が荒れていた時期があり、保護者からも苦情が寄せられた。愛子さまは2日は4時限目の国語の授業だけ出席したが、帰り際、以前騒いでいた男児2人が急に走り出し、ぶつかりそうになった。学習院は「以前のこともあり、怖い思いをされたのではないか」としている。
学習院の東園基政・常務理事は「他の迷惑になる児童がいたことは事実だが、現在は沈静化している。愛子さまが直接、いじめや暴力の対象になったことはないが、3年生のクラス替えなどの際に配慮し、保護者にも規律順守を改めて呼びかけるなど早急に対応したい」と話している。
(引用終)
おそらく今頃、各週刊誌の記者は原因追及のために飛び回っているのだろうなあと想像する。たぶん来週には各週刊誌にさまざまな論評が掲載されることでしょう。
今回あえて東宮職から自発的に問題を公開したのは、先に公表して自分たちはこの問題を把握してしっかり対応しようとしているということを示して、有利な第一印象を付けておきたいということがあるのだろう。
また、おそらく隠しておいても、長期欠席していることから色々と勘ぐられるし、さらに学習院関係者や同級生の親などからの週刊誌への情報提供などで必ず記事になるだろうから、後で追いつめられて出すよりはという考え方もあったのだろう。
今の情報では実際に「いじめ」があったのかはよくわからないが、ただ「登校拒否」になるということは相当に厳しい状況があったことは推測できる。
ただ、雅子妃バッシングの続く中では、ひょっとすると「たいしたことではないのに登校拒否を許すなんて皇太子夫妻は甘い」みたいな論調も出てくることが予想される。
ただ、あくまでも推測であることを前置きしておくが、要するに学習院ですら「皇族への敬意」というものが薄れているということなのかなと思う。
小学校低学年の子供は、どこまで皇族というものを理解しているかはわからない。でも、例えば親が皇族への敬意を持っているような家庭に育った子供なら、少なくとも同学年の皇族に対して、問題になるレベルの「暴力」という行動にいきつくことはないだろうと思うのだ。
もちろん親への反抗で逆に暴力に走る可能性もありうるが、その場合は事実を知った際に親が全力で止めるだろう。
特に、いまの愛子内親王と同学年の生徒達は、彼女と同級生になる可能性があるとわかっていて学習院の入学試験を受けているはずなのだ。少なくとも、皇室に対してまったく無関心、もしくは反皇室的な家庭に育ったとは思えない。
こうなると、やはり雅子妃バッシングの影響もあるんだろうか・・・。
最近、学習院に通わない皇族が増えてきたのも、結局はそういった学習院気質の変化に気づいているということなのかもしれない。「学習院に通うメリット」がなくなってきたということかなあと。
来週の週刊誌は注意して見てみたいと思います。
追記(3/11)
とりあえず主要な5誌を立ち読みした。さらっと読んだだけなので勘違いもあるかもしれないが、各誌スタンスの違いがあって面白い。
『女性自身』・・・完全に皇太子夫妻擁護一色。良くも悪くも当たり障りなく。
『週刊女性』・・・皇太子夫妻擁護が基本だが、批判する声もさらっと紹介。
『女性セブン』・・・上記2誌よりも発売が2日遅いせいか、非常に詳細な記事。一番読み応えがあったしバランスもそこそこ取れていたような。
『週刊文春』・・・元々皇太子夫妻擁護派なのでバランスを取ろうとしている。学習院批判が強い。学習院関係者の話はかなり詳しく聞けている印象。
『週刊新潮』・・・雅子妃バッシングの筆頭だけあり、悪意すら感じる皇太子夫妻・東宮職批判が強い。愛子内親王の素行の話も取り上げており、被害者にも問題があったのではと取られてもおかしくない記事で、さすがにこれは引く。
なかなかこの話は長引きそうな感じだ。新学期からどうなるか・・・