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天皇の魚類学 [天皇関係雑感]

青春18きっぷが使える間にということで、京都から帰ってきた当日に、東京海洋大学の水産資料館で行われていた(7月30日まで)「天皇陛下の魚類学ご研究」の展示を見てきた。
といっても、ハゼの研究を見たって、理系音痴の私にはさっぱりわからんのだが。
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↑天皇が実際に使っていた標本

展示室にいた海洋大の方から聞いた話によると、そもそも初めは「今年は天皇即位20年、結婚50年で、魚類研究者だから何か展示をするか」ぐらいのノリで、論文の展示でもしようかということだったらしい。
ところが、企画者の教授の師匠にその話をしたところ、それが天皇の所まで伝わり、「それは良い企画だから標本貸そうか」という話になり、大ごとになったらしい。

もともと標本自体は、海洋大の先生達が集めて天皇にあげたものらしく、瓶には「TUF」(海洋大の前身の東京水産大学のこと)との記載がある。
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ところで、「天皇の生物学研究って「世界的水準」って言われるけど本当か?」という質問をたまに受けることがある。
私は生物学の専門家でないので確たることは言えないのだが、むかし本で読んだ知識からすると、そもそも現天皇や昭和天皇が専門にしている「魚類分類学」という学問自体が、かなりマイナーな学問分野らしい
分類学はとにかくサンプルをかき集め、ひたすらそれを見続けて分類するという基礎科学なので、どうもあまり面白いものではないようで、研究者が参入してこないらしい。

例えば、昭和天皇はヒドロソアの研究をしていたわけだが、これは「誰もやっていない分野」を選ばされたということもあると聞く。戦前は天皇への批判はできなかったから、学問的に論争が激しいところでの論文発表は、もし間違ったことを発表すると学問の停滞を招くということが配慮されたらしい。
読売新聞の宮内記者だった小野昇によれば、

「”ヒドロソア”という動物とも植物ともつかない海底の微生物は、博士論文をとるための研究対象としては余りにも地味すぎ、また資料を蒐集するためにはばく大な費用と時間と、なみなみならぬ努力が必要なので、世界各国でもこれを専門に研究している学者は極めて少く、まったく陛下の独壇場だといわれている。」(小野昇「生物学者天皇」『国民科学』1947年8・9月号、10頁)

とのことだ。

現在の天皇はハゼの分類学の研究者であるが、おそらくあまりライバルのいない分野なのだと思う。
だから、ハゼについては世界的に見ても有数の研究者であるということはそれほど間違いでもないのではないか。
(ちなみに、ニッチな分野をやっているからといって否定的に見ているわけではない。こういった基礎科学へのこだわりは、「役に立つ学問」ばっかり求める最近の風潮に逆らっているようで、かえって好ましい。)


さて、海洋大の資料館の後に、皇居の三の丸尚蔵館で「両陛下―思い出の絆の品々」の展示を見てきた。
いままで見たことないものも結構並んでいて新鮮だった。
着袴の儀(1938年)の服とかは、モノクロの新聞写真しかみたことなかったから、色鮮やかでびっくりした。

これから展示を変えながら来年まで続けるらしい。ただ、もう一部屋ぐらい展示室があっても良いよなあと思う。一部屋だけの展示スペースは少ないなあと。

今年は即位20年、結婚50年なので、各所で展示会が続く。秋には東京国立博物館で「皇室の名宝」展もやるみたいだし。
色々と見て回ることが多くなりそうです。


おまけ

実はこの後に行った所は↓だったりする。
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実物大ガンダムすげー!
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伏見桃山陵(明治天皇陵) [天皇関係雑感]

京都に行ったついでに、伏見桃山陵(明治天皇陵)に行ってきた。
前に行ったような記憶があったのだが、風景に全く見覚えがなかったので、どうやら別の所と勘違いしていたらしい。

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↑明治天皇陵。なんか斜めになってる(^^;)

明治天皇陵は京都の伏見城の跡地にある。
すでに天皇は東京に移っていたのだが、明治天皇は京都で埋葬されることを望んだ。大正天皇以降は東京の武蔵野陵(中央線高尾駅の近く)に埋葬されている。

今回行ってみて気付いたのは、皇后である昭憲皇太后との墓の位置関係である。
明治天皇陵のあるところよりも、皇后の墓の方が標高が低い位置にあるのだ。

これは、大正天皇や昭和天皇を考えると明らかな違いがある。
大正、昭和は皇后陵が真横に並んでいるのである。(ちなみに明治の前の孝明天皇の場合はよくわからない。同じ所に埋葬されているのだが、中がどうなっているのか見えないので。)

明治天皇は山の中腹に埋葬されているんだから、スペースの問題ではと考えられなくもないが、そもそも横に並べるスペースがないところに墓を作ったのだから、並べる意図が全くなかったことは確かだろう。

この差を考えると、皇后の皇室における立場の変化というものが関係しているのかなと思う。それだけ、皇后独自の役割が増え、役割の重要性が増したということなのかもしれない。
ただ、もし大正天皇の妻の貞明皇后が、戦前の帝国憲法下に亡くなっていたらどうなっていたかはわからないが・・・。(亡くなったのは1951年)

なお、伏見に行く前に嵐山の天龍寺に行っていたのだが、そこに後嵯峨天皇と亀山天皇の墓があった。
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左が亀山天皇陵、右が後嵯峨天皇陵。

見にくいと思うのだが、仏式のお堂が建っている。
ちなみに明治天皇と比較してもらえばわかるが、全然形式が異なる。かたや仏堂、かたや上円下方墳。
これを見るだけでも、天皇の祭祀がどのように変化をしてきたのかということもわかるのではないだろうか。

最後に、宮内庁には一言述べておきたいことがある。

「参道の長い陵墓にはベンチを置くべきだ!」

何カ所か陵墓には行っているが、いつもこれが気にかかってしょうがない。
参道に入ってしまうと、一切休憩を取れる場所が無くなるのだ。

今回も、地べたに座り込んで休んでいたお年寄りの方を見た。他でも同じような光景を見たことがある。
陵墓のすぐ側には宮内庁職員用の詰め所が建てられており、「聖域だからベンチをおけない」などという理由はないはずである。
こういった配慮がないのは、いかにも天皇しか見えていない宮内庁らしいといえばらしいが、もう少し訪れる人のことを考えた方が良いのではと思う。まあ私が心配することでもないのだが・・・。


おまけ
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帰りがけに、まさかの皇太子と京都駅で遭遇。(高校総体の開会式のために奈良へ向かう途中)
生で見たのは初めて。知識として知ってはいたが、小柄だなあという印象。
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橋本明『平成皇室論』を読んで [天皇関係雑感]

昨今、話題になっている橋本明氏の『平成皇室論―次の御代へむけて』(朝日新聞出版、2009年)を読んだ。

『週刊朝日』が販促のためにこの本を取り上げており、作者が天皇の「同級生」であることや、その内容から、色々と話題になっているようである。
Googleアラートで「天皇」とか「皇室」とかを登録してあるのだが、この本について書いているブログなどがよく引っかかってくるようになった。

橋本氏の本で一番話題になっているのは、最終章の「東宮家の選択肢」で書かれている内容であろう。
雅子妃が精神疾患で公務ができなくなっている状況から、橋本氏は3つの選択肢を挙げている。

①「別居」・・・精神疾患を治すため、ストレスの原因となっている皇室から遠ざけ、治療に専念させる。
②「離婚」・・・雅子妃を皇室から解放する。
③「廃太子」・・・皇太子が皇位継承権を秋篠宮に譲る。現在、継承権順位は、皇太子徳仁親王→秋篠宮文仁親王→同悠仁親王の順だが、秋篠宮文仁親王→同悠仁親王→皇太子徳仁親王の順にする。(皇太子夫妻は皇族としては留まる。)

事前に週刊誌の見出しを見ていて、「廃太子」は「皇籍離脱」(皇族を辞める)のことだと思っていたがどうやら違うようだ。
なので、改めてみると別にそれほど驚く主張をしてないなという感じはする。

私自身、持論は①である。究極的には「精神疾患の皇后を国民が受け入れればよい」という話だと思っているので、②とか③の選択肢は無いなと、個人としては思う。

ただ、橋本氏は、「国民規模の議論に展開していくことを願う」(14頁)と述べている。
これは、天皇の「同級生」である自分がこういうことを書けば、皇太子妃問題が大きな話題となることを見越してこの本が書かれたということを示している。つまり、こういった3つの選択肢を出したのも、橋本氏なりの「戦略的言説」であることは確かだろう。

この皇太子妃問題は国民自身の問題だということを主張しようとしていることについては、その思いはわからなくはない。
おそらく、「嫁姑の争い」みたいな次元の話ではなく、もっと天皇とはどうあるべきかということを、国民が考えてほしいと、橋本氏は望んでいるように思うのだ。

実は私は一度、この著者の橋本氏とお会いしたことがある。
手元の記録を見ると今から6年前のことである。
現天皇の皇太子時代の研究をしていた私にとって、当時の皇太子のことを知る人から聞きたいことが山ほどあったので、ある方から橋本氏を紹介してもらったのである。

まだ修論を書いてから1年強で、学術論文を一本も発表していなかった私にとって、橋本氏との面会は非常に緊張を強いられるものであった。そして、「圧倒」されて帰ってきた。

この面会時に橋本氏に強く感じたことがある。
それは「学習院卒であることへの強烈なプライド」である。

橋本氏は1940年に当時の皇太子とともに学習院初等科に入学した。その後、大学まで共にすごした方である。
そして、その学習院の教育を受けたことへの強烈な誇りを隠そうとしていないところがある。今回の本でもそういった記述は散見される。
戦前の皇太子について書いた『平成の天皇』(文藝春秋、1989年)などからもそういったことを強く感じる。

そして、この「誇り」は、橋本氏が「現天皇の藩屏」であろうとする意識とつながっているように思う。
橋本氏は著書『昭和抱擁』(日本教育新聞社、1998年)の中で、高等科の時に、教師から「皇太子のスポークスマン」としての役目を押しつけられたというエピソードを書いている(177頁)。
これは、橋本氏が作り話をして自分の主張を権威づけようとしているわけではない。おそらく真実であろう。

実際に、高等科以後のマスコミの記事に、橋本氏は煩雑に登場するようになる。
しかし、その役割を担ったのは橋本氏だけではなかったように思う。1950年代には煩雑に登場する同級生は他にも存在しているからだ。
だが、その後、現在に至るまで、その役割をいまだに担おうとしているのは橋本氏だけであろう。

もちろん、これは「橋本氏の考え=天皇の考え」ということを意味しない。
橋本氏が自らを「藩屏」と位置づけているだけである。

だが、現天皇夫妻が不人気な時代であった時にも、徹底的に夫妻を擁護する記事を書き続けてきたのは確かだ。
例えば、1975年にサイモン・グロブスターというジャーナリストが「42才の皇太子アキヒト」という記事を『週刊文春』に書き、あまり明確でない情報に基づいて皇太子夫妻が不人気であることを書いたのに対し、連載終了後に真っ向から反論を書いたのは橋本氏であった。

橋本氏には、現在の天皇皇后を守ることこそ、自らの人生に課した役割だという強烈な思いがある。
だから、天皇皇后の行うことを絶対視し、それを引き継ぐことが危ぶまれる皇太子夫妻に対する不安があるのだろう。
その意味では、『週刊朝日』で香山リカが「舅の嫁いびりに見える」と言っていたのは、実は「当たらずといえども遠からず」というところだなとは思う。

そういった橋本氏の立ち位置を踏まえてこの本を読むと、もう少し冷静に最後の提案も読めるように思う。
つまり、橋本氏は皇太子を廃して、秋篠宮に天皇を継がせれば万事OKということを書いているのではない。
ただ、現天皇の後に即位する人が「現天皇の路線を継いでくれるか否か」にその力点があるのだ。


実は、私はこの橋本氏の言説がどのように作られていったのかという点については、以前から興味を持って資料を収集している。
いつか、「天皇の藩屏を引き受けた」橋本明と、「天皇の藩屏になりたくてなれなかった」藤島泰輔という二人の「御学友」から見た戦後天皇論を書いてみたいなと思っている。学術論文としてではなく、エッセイみたいな物で。
いつになるかは見当もつかないが・・・

平成皇室論 次の御代へむけて

平成皇室論 次の御代へむけて

  • 作者: 橋本 明
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2009/07/07
  • メディア: 単行本



昭和抱擁―天皇あっての平安(やすらぎ) 戦後50年・年譜の裏面史

昭和抱擁―天皇あっての平安(やすらぎ) 戦後50年・年譜の裏面史

  • 作者: 橋本 明
  • 出版社/メーカー: 日本教育新聞社
  • 発売日: 1998/04
  • メディア: 単行本



平成の天皇

平成の天皇

  • 作者: 橋本 明
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1989/03
  • メディア: -



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天皇皇后結婚50周年 [天皇関係雑感]

今日、2009年4月10日で天皇と皇后の結婚50周年になる。
昔ある人が「50年経ったら歴史学の研究対象」と言った人がいたが、そのぐらい昔の話なのだといまさらながら考えるところがある。

本来なら、この50年をどう考えるかという記事を書きたいところなのだが、公文書問題で手一杯なので、今日思ったことを簡単に書いておきたい。

まず、今回の記者会見を見て、あらためて天皇はなかなか考えた発言をしてると感じた。
特に、下記の部分。

 時代にふさわしい新たな皇室のありようについての質問ですが,私は即位以来,昭和天皇を始め,過去の天皇の歩んできた道に度々に思いを致し,また,日本国憲法にある「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるという規定に心を致しつつ,国民の期待にこたえられるよう願ってきました。象徴とはどうあるべきかということはいつも私の念頭を離れず,その望ましい在り方を求めて今日に至っています。なお大日本帝国憲法下の天皇の在り方と日本国憲法下の天皇の在り方を比べれば,日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合,伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います。

 守ってきた皇室の伝統についての質問ですが,私は昭和天皇から伝わってきたものはほとんど受け継ぎ,これを守ってきました。この中には新嘗祭のように古くから伝えられてきた伝統的祭祀もありますが,田植えのように昭和天皇から始められた行事もあります。新嘗祭のように古い伝統のあるものはそのままの形を残していくことが大切と考えますが,田植えのように新しく始められた行事は,形よりはそれを行う意義を重視していくことが望ましいと考えます。
(引用終)
→全文はこちら

前段の部分は私もそうだろうなと感じている。
天皇は、戦争直後に疎開先から帰ってきたときに、東京の焼け跡を見てショックを受けたことを以前から語っている。今回の記者会見でも「戦争」に触れた発言が多いのも、そこへのこだわりが強いことを改めて感じさせる。
その天皇にとっては、日本国憲法というのは、自らの立場が変わったという以上の重いものとして考えられているということなんだと思う。

後段の伝統の部分は、天皇は良質な保守主義者であるということを感じさせる。
ようするに、伝統とは形を守るものではなく、精神を守るものである。さらに、それは時代に応じて変化をするものであり、固定したものとして考えられるべきではないということを述べているのだと思う。
こういった考え方は、小泉信三の影響を受けているのだろうか。「伝統=固定したもの」として考えがちな保守系の人達にとっては、頭の痛い発言なのではと思う。
また、このような言い方をすることで、皇太子への負担を軽減しようとしているようにも見える。

私は研究の関係で、天皇の皇太子時代からの発言やマスコミの記事などをかなり見ているが、この人ほど日本国憲法を自分の問題として捉え、そして考え抜いてきた人もいないのではないかと思っている。
その答えが、現在の公務のあり方など、さまざまな場所に現れている。そして皇后はその伴走者として常に天皇の考え方を支えてきたのだと思う。

また、マスコミとの50年に及ぶ(天皇だけなら報道の検閲が無くなる1945年から64年に及ぶ)駆け引きによって、この夫妻はマスコミ対応に非常に長けている。
だからこそ、天皇の記者会見での発言は、非常に精査された政治的発言であることはもっと考えられてよい。
これは、その政治的発言が悪いとかそういうレベルの話ではなく、「象徴天皇制とは何か」ということを考える材料を、天皇皇后は常に与え続けているということなのだと思う。そして国民の側にも「天皇制をどう考えるのか」を問うているような気がするのだ。

私自身、いつかはきちんとそのあたりを文章で書きたいと思っているが、まだうまくまとまる感じではない。でも、今でもこの夫妻には興味が尽きない。
歴史研究者として、改めてこの天皇皇后についてきちんと研究したいと考えた次第。

本文はここまでだが、あと、宮内庁のHPに天皇皇后の50年の特集があります。
http://www.kunaicho.go.jp/50years/50yearsph.html
宮内庁らしいなと思うのは、せっかく映像を上げているのに、天皇皇后の肉声が一切出てこないということだ。
1980年代初めぐらいまでは、あの「皇室アルバム」ですら音声をテレビで流すことが禁じられていたので、そこまでは音声データがない可能性もあるが、平成になってからの映像も音声を無くして、全て環境音楽みたいなのを流しているのはどうなんだ。
やはりこういうところは、頭が固いなあと感じる。私が言うのもなんだが、もうちょっとメディア戦略を考えた方がよいのではと思うんだが・・・。
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高円宮絢子女王、城西国際大学に入学する。 [天皇関係雑感]

昨日からえらいアクセス数が伸びていて、まさか「公文書管理政策に興味でも集まったのか?」と思ったら、高円宮関係の前に書いたブログ記事が注目されていたためで、ちょっとがっかりした。
公文書管理の話は年金問題などの元凶なんだが・・・。いちおうリンクを貼ってみる。→興味がある方はこちら

でも、折角なので、高円宮の話を取り上げてみようかと思う。とりあえず記事の引用から。

高円宮絢子さま、宮邸出られ通学

3月24日7時56分配信 産経新聞

 高円宮家の三女、絢子さまが4月から城西国際大(千葉県東金市)に入学し、赤坂御用地内の宮邸を出て生活されることが23日、わかった。皇族として生まれた方が、生活の拠点が国内にありながら、実家を出られるケースは珍しいという。

 関係者によると、絢子さまはキャンパス近くの住宅で他の学生と共同生活をされる予定。外国留学中の皇族方が一人暮らしを体験されることはあったが、国内では珍しい。 

 絢子さまは22日に学習院女子高等科(東京都新宿区)をご卒業。以前から興味を持っていた福祉分野の知識を深めるため、4月から同大学の福祉総合学部で学ばれることになった。

 皇族方は学習院大(豊島区)へ入られることが多いが、福祉関係の学部がないため、絢子さまは城西国際大への入学を決められたという。

(引用終)

正直、いくつかツッコミ所があるが、主にこの二つだろう。

・なんで城西国際大学なのか?
・共同生活をする相手は誰なのか?


まず、城西国際大学だが、あまり偏差値の高くない大学と言ってしまって良いだろう。
大学のホームページで、昨年度の福祉総合学部の入試結果を見たが、定員360人に対して合格者が174名。定員の半分行っていない。おそらく実際の入学者はさらに減るだろう。
また、以前には「幽霊留学生」(就労目的で留学してくる学生)の問題で、東京入国管理局から指導も受けている。→朝日の記事
典型的な、定員割れをしていて経営環境が厳しい大学の一つであることは疑いない。

さて、そうなると、大学の環境が充実しているからというレベルで選ばれたとは考えにくい。
もちろん、城西国際大学は教育に対して努力していると思うが、ほぼ入試倍率1.0倍の大学の学生に質の良さを求めるのは酷だろう。そのレベルに合わせた教育を行っているとすれば、やはり限界があると思う。
やはり、何か高円宮家との関係があるのかなあという点は疑ってしまう。

そうすると、今回の入学は、もう一点の方に重点があるのかなということが推測される。
つまり、宮邸を出て、共同生活をするという点である。
現在の皇室典範の規定では、女性皇族は結婚したら皇籍離脱するのがルールなので、絢子女王はおそらくいつかは皇族ではなくなる。それを見越して、先に一般社会で修行をということなのかもしれない。
そのためには、姉の承子女王が遊び呆けて問題になったようなことがないように、都心よりも田舎の大学が選ばれたという可能性はありそうだ。少なくとも千葉の東金の近くに遊ぶところがいっぱいあるとはどう見ても思えない。海水浴場はあるけど。

ただし気になるのは、城西国際大学には寮が無いということである。
しかもそれなのに「共同生活」をするということは、だれか一緒に住む相手が初めから決まっているということが推測される。寮でもないのに、何もわからん人とは共同生活はしないだろう。ということは、学習院の友人あたりがだれか付いてくるということなんだろうか。

とりあえず考えつくことは書いてみたが、やはり根本的には「なんで城西国際」という疑問は全く解ける感じがしない
宮邸を出ることが目的なら京都の大学とか行けばよいと思うし、福祉ならもっといい大学があるはず。田舎に行かせるにしても、もうちょっと選択肢はあるだろう。
それに、皇族を学生として迎えるというのであれば、それを歓迎する大学はもっとあるのではと思うのだ。AO入試とかもあるなら、成績もそれほど関係ないだろう。

まあ今の宮内庁が全然そのあたり頭が回ってないということなんかもしれん。それとも、やはり本人の「学力が足りない」んかなあ・・・

ぜひとも、どこかの週刊誌が、なんでこうなったのかを追ってほしいなあと思う。どうもすっきりしない感じだ。


追記3/27

いくつかの表現について、複数の方から「問題がある」との指摘がありましたので、一部削除、変更しました。もし不愉快に思われた方がおられましたら申し訳ありません。
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聖蹟桜ヶ丘と旧多摩聖蹟記念館 [天皇関係雑感]

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聖蹟桜ヶ丘の旧多摩聖蹟記念館に自転車で行ってきた。
以前から、国立駅で見る「聖蹟桜ヶ丘駅ゆき」のバスが気になっていて、いつかは行っておこうと思っていた。

「聖蹟」とは天皇の行幸地などが、後から史蹟になってこう呼ばれる。特に、大正末期から昭和初期にかけて、明治リバイバルブームがあったときに、各地で明治天皇の行幸地が「聖蹟」として顕彰され、石碑などがあちこちで立つようになった。
聖蹟桜ヶ丘に記念館ができた理由は私もよくわからないが、Wikipediaによると明治天皇の陵墓は京都桃山にあるので、大正天皇の眠る多摩地域に記念館をということだったらしく、田中光顕元宮相が中心となって建設されたらしい。
記念館のある連光寺周辺は、明治天皇がウサギ狩りなどで4回訪問しているために「聖蹟」にふさわしいということだったようだ。

実際に記念館ができたのは1930年。ただ、周りにある石碑を見ると、記念館建設以前に建てられた碑が無く、ほとんどが紀元2600年(1940年)の時に建てられたものなので、多摩地域の明治天皇が立ち寄った場所から選んで記念館を建設して「聖蹟」化したということなのだろう。
「聖蹟桜ヶ丘」という地名が付いたのは、京王線の関戸駅が聖蹟桜ヶ丘駅に改称された1937年らしいこともその裏付けになるだろう。

さて、実際に記念館に行ってみたわけだが、正直期待はずれだった。
何というか展示物も微妙だし、展示品に価値もあるように見えない。(というか展示にやる気を感じない。自分の館を紹介するパンフすらない。)

多摩市が引き受けた経緯を見てみると、戦後は財団が何とか細々と続けていたが結局経営が持たず、多摩市が建物の文化財的価値を評価することで引き受けたようである。
確かに建物はモダンな形をしていて、なかなか他では見られない貴重なものであることは疑いない。

ただどうやらあの場所にある根拠が薄弱なせいか、あまり入場者が集まらなかったようなのだ。
当然そのような状況なのだから、多摩市が引き受けてもあまり状況は変わらなかったのだろう。
外に置いてあった田中光顕の銅像は、戦中の金属回収に供出されてから結局再建されず、土台だけが放置されているし、何というかうらぶれた感じになっている。
一番初めに挙げた明治天皇と昭憲皇太后の歌碑も何というか放置されている感じが漂う。

こう考えてみると「聖蹟」という考え方そのものが時代にそぐわなくなっていることがよくわかる。戦後で言うと、全国植樹祭で天皇が木を植えたところが一種の「聖蹟」なんだろうけど、それをめあてに観光に来る人はろくにいないわけだ(私みたいな特殊な人を除き)。
何でもかんでも天皇が来たから記念に何か残しましょうという考え方自体に私は疑問があるので、それはそれで良いことだと思うのだが。

しかし、自転車で行くにはなかなかハードなところだった・・・。連光寺の坂が結構しんどかった・・・。運動不足すぎる・・・(泣)
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天皇の公務は減るのか? [天皇関係雑感]

今日の毎日新聞の記事。引用します。

<宮内庁>国体など天皇陛下の「お言葉」廃止 公務負担軽減

1月29日19時23分配信 毎日新聞

 天皇、皇后両陛下の公務と宮中祭祀(さいし)の見直しや負担軽減を検討してきた宮内庁は29日、国体開会式や全国植樹祭などでの天皇陛下の「お言葉」を原則廃止するなどの対応策を発表した。

 お言葉は、行事前にかなりの時間をかけて陛下自ら推敲(すいこう)を重ねるため、負担となっていた。戦没者追悼式、国会開会式、宮中晩さん会や各種の公的な50周年記念行事など節目の式典では、従来通り続けるという。

 このほか公務では行事数を減らすことは避け、内容や方法を見直した。春と秋の叙勲では、7~8日間かけて受章者と会う回数を一日分に当たる4回減らし、外国の首相級との会見は公式色の強い訪問に絞り込む。

 陛下が臨む祭祀は年間30回を超える。最も重要な11月23日の新嘗祭(にいなめさい)では、深夜から未明にかけての儀式に臨む時間を短くする。元日を除く毎月1日の旬祭(しゅんさい)は、5月と10月以外は代拝とする。
 風岡典之・宮内庁次長は「植樹祭では木を植えられるので、お言葉がなくても、お気持ちは十分伝わると思う」と説明する。天皇陛下は昨年末ストレスが原因の胃腸炎で体調を崩した。皇后さまにも、めまいなどの症状が表れ、即位20年を機に見直しを進めてきた。【大久保和夫】

(引用終)

宮内庁の発表は「今後の御公務及び宮中祭祀の進め方について」としてすでにウェブサイトにも掲載されている。

ただ、正直私はこの宮内庁の文章を読んで、「本当に削減になるんか?」と疑問を感じざるを得なかった。
確かに宮中祭祀の一部は代拝になると書いてあるが、一番肝心の「公務」の件数がほとんど削減されていない。

宮内庁の文章の中には以下の文言が入っている。

「昭和50年当時と比べると,外国賓客や駐日大使との御会見・御引見等については,約1.6倍,赴任大使や帰朝大使との拝謁等については,約4.6倍,都内や地方へのお出ましについては,約2.3倍と,大きく増加しており,これらに伴い,両陛下の御負担も増大しました。」

これからみれば、天皇の負担の大きさが最も大きいのは、こういった「公務」にあたる部分であることは明白である。
この件数をほとんどいじらずに、「おことば」などを減らしたりというレベルの削減で、どうにかなる状況では無いのではないか。それに、行事に参加する時間が減れば、その分、別の場所に立ち寄ってくれといった話になるのは必定だ(行幸の日程を作っているのは宮内庁ではなく各都道府県。もちろん宮内庁が下検分して調整はしているが)。

今回のこの発表を聞いて考えるのは、以前にも書いた「天皇皇后の公務に対する責任感の強さ」と、それに屈した宮内庁長官という構図である。本来なら健康などを考えればもっと削減に踏み込んで良かったはずだ。それができなかったのは、長官の甘さだと思う。
また、これは推測だが、宮内庁自体が皇族全体の公務の件数をおそらく把握しておらず、天皇から皇太子、ないし秋篠宮などへの公務の移管がまともにできないということなのではないか。本来なら、全皇族の公務を把握した上で、重要度のランクを付けて天皇が行くのがよいのかなどの判断を下す必要があるはずだが、おそらくやってないだろう。

実際にどう減っていくのかは追々わかってくることだと思うが、とりあえず私はそれほど劇的には減らないのではと感じている。
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首相の伊勢神宮参拝 [天皇関係雑感]

あけましておめでとうございます。
本年も本ブログをよろしくお願いします。

新年一本目のテーマは、「首相の伊勢神宮参拝」について。

毎年1月4日の仕事初めの日に、首相が伊勢神宮に参拝している。最近では民主党の党首も参拝しているようだ(今年は行っていない)。
この4日に行くというのは、どうやら佐藤栄作が首相の時に慣例化したらしいが、それ以前からも首相が正月に伊勢に参拝するのはあたりまえのように行われていた。首相や閣僚が就任の挨拶に伊勢に行っていた時代もあったはずである。

これについては、靖国問題と同様に宗教的な行為だとして違憲だと抗議している人達もいる。
ただその動きは靖国と比べて全くと言っていいほど発言力がない。社民党ですら村山が首相の時に参拝しているので、特に抗議していないようだ。
これに対し、政府側は玉串料は私費で払っているので私的参拝であるという論理で、特に問題にしていない。

さて、この伊勢神宮参拝問題には、面白い世論調査がある。
それは、統計数理研究所の「日本人の国民性」調査である。

統数研は以前は文部省に属していたが、今は「大学共同利用機関法人情報システム研究機構統計数理研究所」という非常に長い名前の組織になっている。
「日本人の国民性」調査とは、1953年から5年ごとに行っているもので、全く同じ設問を毎回繰り返すことで、その経年変化を読み解こうという調査である。このような形式の調査はあまり類が無く、他にはNHK放送文化研究所が1973年から行っている「日本人の意識」調査ぐらいしか存在しない。
この中に首相の伊勢神宮参拝について聞いた調査があるのだ。

問 あたらしく総理大臣になったとき、伊勢の皇大神宮にお参りに行く人がありますが、あなたはこのことをどう思いますか?
1 行かねばならぬ
2 行った方がよい
3 本人の自由だ
4 行かない方がよい
5 行くべきではない
6 その他[記入]


調査結果を下に貼ろうかと思ったのだが、統数研のページにあるのでこちらを参照。以下はその結果を見ながら書きますので、見てもらった方がわかりやすいかもしれません。設問は「あたらしく総理大臣になったとき」という内容だけど、「首相の伊勢参拝」の是非を問うていると思います。

この調査の結果は、経年変化がものすごくクリアに出ている。
まず、「行った方がよい」という人は、1953年では50%いるが徐々に減少し、1978年に20%を切るがその後は10%後半に留まって安定している。また、「行かねばならぬ」という意見も同じ頃に一桁前半に低迷する。
一方、「行かない方がよい」「行くべきではない」という人は、佐藤栄作首相時(1968年)などは足して20%ぐらい行っているときもあるが、おおよそ合わせて10%で安定している。
最も増えているのは、「本人の自由だ」という意見で、1953年には23%だったのが1978年には50%を超え、現在では60%を超えている。

ここからわかることは、「行く」「行かない」を選択する人はいつの時代でも一定数存在すること。そして、「行った方がよい」という意見の人が、徐々に「本人の自由だ」に流れていったということが言えると思う。
つまり、慣例的に「行った方が良くない?」と思っていた人達が、「どっちでもよいのでは」という意見にずれていったということなのだと思う。政治的に争点になる行為だと思われなくなったということなのではないか。

私自身、正直「本人の自由」ではと思っている。
確かに、突き詰めれば宗教的行為ではあると思う。公費を全く使っていないかと言えば、もちろん秘書官などの交通費は公費のはずだ。だがそれを言ってしまえば、麻生がバーに行っている時の警備員の給与は公費なのだから、それもダメなのかという話になってしまう。首相は24時間「公人」であると主張する人もいるだろうが、私はそれは違うと思う。

私は、首相の参拝が、他の人達に参拝しなければならないという圧力を生むことや、その参拝に施設の正当性が関わってくるといった政治的問題が絡むのであれば、私的参拝であろうとも「政治的判断」を働かせるべきだと思う。ある宗教に利益をもたらすような動きは、首相として慎むべきだと思う。
だが、伊勢に首相が参拝したところで、別に伊勢神宮に権威がつくわけでもあるまい。「首相が行っているから」といって参拝しに行く人が増えるとも思えない。それに「私的参拝」という形を取っているのであれば、それは容認されても良いのではないかと思う。例えばクリスチャンが首相就任中は教会に行ってはいけないと言えるのかということと同じ事だと思う。
もちろん、「戦前の記憶」との関係で問題視する人はいるだろうが、靖国と伊勢は成り立ちからも大きく異なっているのだから、やはり別に考えるべきなのではと思う。

ちなみに、この統数研の調査結果、なかなか面白い。
とくに「男女の差異」についての調査は興味深い。是非とも一度見てくだされ。

今年もこんな感じで、天皇関係、公文書関係を中心に更新をしていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
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最近の一連の天皇・皇室報道に思う [天皇関係雑感]

ここ2週間ぐらい、天皇の健康状態悪化から始まって、色々な動きが報じられている。
ずっと横目で見ていたんだが、どう評価したものかと思って考えがまとまらなかった。他にもやることがあったので。
でも、少しまとめる意味でも書き残しておこうかと思う。

まず、この間の動きを、日程順に並べてみる。

12月3日 天皇が不整脈のため、公務を取り止めるとの発表。(4日まで)
12月5日 検査のためにさらに1日公務取りやめを延長。(6,7は土日)
12月8日 天皇公務復帰
12月9日 皇太子雅子妃誕生日談話発表。東宮職医師団見解発表
       金沢皇室医務主管などが天皇の病状を発表
12月11日 羽毛田宮内庁長官、定例記者会見の場で「私的見解」発表
12月12日 野村東宮大夫、長官発言に対してコメント発表

この中で重要なのは、9日の金沢皇室医務主管の談話と、11日の羽毛田長官の談話である。
私はこれらの中に、2つの天皇の強い意志を感じた。

1つめは、「正確な情報を出すということへのこだわり」である。
以前、天皇は前立腺ガンになったときも、その公表をためらわなかった。
私は今年の1月にブログで書いた記事の中で、天皇は昔から異様に「嘘をつかれることが嫌い」な人であったということを書いた。→「宮内庁が報道への反論を始めたことについて」
9日の医務主管の談話を見ると、病状は一切隠さないという天皇の意志を強く感じる。
しかし、そのために、不整脈の方はたいしたことがないが、ストレス性の胃炎を患っていることも公表されてしまった。
そのために、11日に長官が弁明をするはめになって、話が拡大したのである。

2つめは、「天皇であることのプライド」「天皇の公務への責任感の強さ」である。
今回の長官会見で私が一番気になったところは次の部分である。

次に、妃殿下の適応障害との診断に関し「皇室そのものが妃殿下に対するストレスであり、ご病気の原因ではないか」、また「妃殿下がやりがいのある公務をなされるようにすることが、ご快復の鍵である」といった論がしばしばなされることに対し、皇室の伝統を受け継がれて、今日の時代の要請に応えて一心に働き続けてこられた両陛下は、深く傷つかれた。その中でなお、お二方のために、両陛下として何ができるか、宮内庁、掌典職と何をはかっていくべきかを考え続けてこられたことを指摘したい。

この部分は、一部では雅子妃批判と取られているみたいだが、「といった論が」と言っているのでマスコミの雅子妃バッシングへの批判となっていることがわかる。
問題は、雅子妃の病気の原因が、「皇室という存在自体にある」「公務の内容に問題がある」というように捉えられていることに対する猛烈な反発である。

長官発言の冒頭にある「ここ何年かにわたり、ご自身のお立場から常にお心を離れることのない将来にわたる皇統の問題をはじめとし、皇室にかかわるもろもろの問題をご憂慮のご様子」という言葉もそうだけど、要するに「皇室」に生きる者としてのプライドというのだろうか、そのようなものを強く感じるのだ。
これは昭和天皇も同じだったけど、自分の代で天皇家を潰してはならない、それを未来永劫子孫につなげなければならないという「皇祖皇宗」に対する強烈な責任意識の現れのように感じる。
そして、天皇は最近の雅子妃の報道のされ方が、自分の守ってきた皇室像を傷つけるものだと考えているのではないだろうか。

また、この意識に公務へのこだわりが混ざってきている。
天皇皇后は公務や祭祀を愚直にやり続けてきたことによって、支持を得てきたという自負がある。
昭和天皇の晩年、やはり今の皇太子夫妻と同様、当時の皇太子夫妻も「人前で手をつないで遊んでいる」とか「家庭を大事にしすぎている」といった批判を浴びていた。

でも実態は違っていた。
1970年代にある新聞は、当時の皇太子夫妻を「パリーグ」と称したことがある。「実力はあるのに人気は今ひとつ」という意味だ。
現在の天皇皇后はそのイメージを払拭するために、ひたすらに公務と祭祀をし続けていた。それが現在の天皇皇后の支持基盤を作り上げてきたのだ。たぶん、天皇皇后はその自覚があると思う。
だから、年を取っても病気になってもなかなか公務や祭祀は減っていかない。公務や祭祀を行うことが自らのアイデンティティと関係があるからなのだと思う。

話を戻して、長官発言だが、この天皇の思い入れの深さが、このような発言をさせる原因になっているように感じるのだ。
これに対して、東宮大夫が、雅子妃も「皇室の伝統もご公務も大切に考えておられ」ると返事して、一応天皇の意に沿った反応を出したのである。


ただ、この一連の流れを見ていて感じるのは、やはり天皇は皇太子夫妻に不満があるのだなあと思ってしまうのだ。
もちろん、そう取られるような表現を極力避けているのは間違いない。長官もその点については相当に慎重に言葉を選んで話している感じがする。
でも、公務が実際にあまり行えていないことは事実であり、皇室の一員としての勤めを果たせていないのは確かである。
私から見れば、やはり雅子妃は皇室に適用できていないから鬱病になっているようにしか見えないし、天皇皇后がそのあたりに不満を抱いているという構図は、やはりあるのではないかと思うのだ。

将来の天皇皇后が自分たちの思いを引き継いで欲しいという願いは、健康状態が悪くなっているという状況も加わって、より強く天皇に表れているように感じるのだ。
それが、「正確な情報を伝える」ために行われている会見の節々からにじみ出ているのが、今回の一連の報道内容なのではないかと思う。

どうもやはりあまり上手く話を詰め切れていないような気がする。12月23日の天皇会見を受けた上で、もう一回再論するかもしれません。今回はここまで。
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皇宮警察音楽隊 [天皇関係雑感]

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先日、資料を閲覧しに宮内庁書陵部に行ったときに、皇居東御苑の芝生(北桔橋門の近く)で皇宮警察音楽隊が青空コンサート(ランチタイムコンサートと言うらしい)を開いていた。
1ヶ月に一回やっているようで、私は見るのは2度目だった。
上手いか下手かと言われると、まあ「楽しそうでいいよね」って感じかなあ(^^)
選曲は、観客の多くが年配の方か外国人ということもあってか、微妙に懐メロ+外国人でもわかるような曲が多めというところか。
ブラバンだけど女性がほとんどメンバーにいないというところは警察らしい。

冬場は寒くてやらないらしいので次回は春だそうな。コンサートの予定は皇宮警察のHPに載るらしい(今見ても載っていないが)。興味がある人は行ってみたらいかがか。
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