聖蹟桜ヶ丘と旧多摩聖蹟記念館 [天皇関係雑感]
聖蹟桜ヶ丘の旧多摩聖蹟記念館に自転車で行ってきた。
以前から、国立駅で見る「聖蹟桜ヶ丘駅ゆき」のバスが気になっていて、いつかは行っておこうと思っていた。
「聖蹟」とは天皇の行幸地などが、後から史蹟になってこう呼ばれる。特に、大正末期から昭和初期にかけて、明治リバイバルブームがあったときに、各地で明治天皇の行幸地が「聖蹟」として顕彰され、石碑などがあちこちで立つようになった。
聖蹟桜ヶ丘に記念館ができた理由は私もよくわからないが、Wikipediaによると明治天皇の陵墓は京都桃山にあるので、大正天皇の眠る多摩地域に記念館をということだったらしく、田中光顕元宮相が中心となって建設されたらしい。
記念館のある連光寺周辺は、明治天皇がウサギ狩りなどで4回訪問しているために「聖蹟」にふさわしいということだったようだ。
実際に記念館ができたのは1930年。ただ、周りにある石碑を見ると、記念館建設以前に建てられた碑が無く、ほとんどが紀元2600年(1940年)の時に建てられたものなので、多摩地域の明治天皇が立ち寄った場所から選んで記念館を建設して「聖蹟」化したということなのだろう。
「聖蹟桜ヶ丘」という地名が付いたのは、京王線の関戸駅が聖蹟桜ヶ丘駅に改称された1937年らしいこともその裏付けになるだろう。
さて、実際に記念館に行ってみたわけだが、正直期待はずれだった。
何というか展示物も微妙だし、展示品に価値もあるように見えない。(というか展示にやる気を感じない。自分の館を紹介するパンフすらない。)
多摩市が引き受けた経緯を見てみると、戦後は財団が何とか細々と続けていたが結局経営が持たず、多摩市が建物の文化財的価値を評価することで引き受けたようである。
確かに建物はモダンな形をしていて、なかなか他では見られない貴重なものであることは疑いない。
ただどうやらあの場所にある根拠が薄弱なせいか、あまり入場者が集まらなかったようなのだ。
当然そのような状況なのだから、多摩市が引き受けてもあまり状況は変わらなかったのだろう。
外に置いてあった田中光顕の銅像は、戦中の金属回収に供出されてから結局再建されず、土台だけが放置されているし、何というかうらぶれた感じになっている。
一番初めに挙げた明治天皇と昭憲皇太后の歌碑も何というか放置されている感じが漂う。
こう考えてみると「聖蹟」という考え方そのものが時代にそぐわなくなっていることがよくわかる。戦後で言うと、全国植樹祭で天皇が木を植えたところが一種の「聖蹟」なんだろうけど、それをめあてに観光に来る人はろくにいないわけだ(私みたいな特殊な人を除き)。
何でもかんでも天皇が来たから記念に何か残しましょうという考え方自体に私は疑問があるので、それはそれで良いことだと思うのだが。
しかし、自転車で行くにはなかなかハードなところだった・・・。連光寺の坂が結構しんどかった・・・。運動不足すぎる・・・(泣)
>運動不足すぎる・・・(泣)
もっと卓球やって鍛えましょうよ!
by ダメ院生 (2009-03-02 16:56)
ははは(乾いた笑い)。まあ新学期まではつきあうよ~。
by h-sebata (2009-03-03 19:06)