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7年後の開示 [宮内庁書陵部]

2週間ぐらい前のことだろうか。宮内庁書陵部から電話がかかってきた。
今、ある資料を系統立って請求しているので、その開示が決まったという連絡だった。

そして、その時に、その担当者の方が

「瀬畑さんが請求していた昭和27年の『恩賜録』なのですが、とりあえず目録だけを見ていただいて、それから必要な部分を指定していただくということでよろしいでしょうか。」

と伝えてきた。

「?」(そんなもの請求してたっけか?)

とりあえず、「わかりました」と伝えておいて見てみることにした。

全く請求した記憶がない。
だが、タイトルと年度から考えると、自分が修士論文で取り上げた内容に関係があるので、人間違いということもなさそうな感じだ。

さて、現物は、不開示部分を墨塗りにされた目録のコピーであった。
内容を見た後、担当者の方に尋ねてみた。「これは一体私がいつ請求したものですか?」と。

2002年6月

7年前やん!

どういうことなのか説明してもらった。

まず、書陵部ではコピーして黒塗りして部分開示するということを基本的にしていない。
そのため、一ヶ所でも不開示情報があった場合は、袋とじにしてそのページ全てを見えなくする方法を取っている。
そのような方法だと、不開示部分が多い文書になると、事実上全て袋とじにして全く何も見れないという状態になるケースがある。
もちろん、コピーして黒塗りにすれば、見れる情報はあるはずなわけだ。

だが、書陵部はコピーする時に、書類の保護のためにマイクロフィルムで撮影して、それを紙に焼くという方式をとっており、コピー自体を作るのにお金がかかる。また、閲覧者のための予算をそもそも用意してない。
ただ、さすがに何もしないわけにはいかないので、毎年の予算から少しずつコピーする予算に回して、数年かけてコピーをためて、黒塗りして回すというやり方を取っていた。(そうやって5年ぐらいかかって資料が出てきたことがある。)

しかし、当然優先順位があるわけで、全く処理されないものも出てくることになる。
そして、そのうち忘れられるものも出てくるのだ。

今回、なぜいきなりその7年前のものが処理されたのか。
しかも7年かけて出てきたのは3ページ分の「目次」だけだ。
担当者の方の話によれば、要するに「前任者が抱え込んでいたものを見つけて処理を始めた」ということらしいのだ。

「引き継ぎしてないんか!」

とまあ、まさに前回書いた「公文書の私有化」の弊害をもろに食っていたということなのだ。

やはり、数回前に書いたが、「文書による期限の明示化」「コピーして黒塗り開示を行うこと」というこの二つを規則に入れることが重要だということが改めてわかる。
なお、予算がないと言い訳しているが、実際には「黒塗りが面倒」というのが本音なのではないかと正直疑っている。
前にも書いたが、予算を使わずに黒塗り開示する方法など、頭をひねればいくらでも考えつくはずなのだ。

規則に入れた上で、予算をしっかりと確保することが当然重要。
だが、情報公開の方で色々と私は体験しているからわかるが、人員を増やさないと、墨塗り開示は簡単にはできないことはもっと考えられて良いと思う。作業量が膨大になるからだ。

それでも、「利用請求権」が公文書管理法に明記された以上、袋とじ開示の方法は絶対に通用しない。
まだ1年半も時間があるのだから、書陵部はどのように今後対応するのか、予算や人員を含めて真剣に考えてほしいと思う。
そうしなければ、宮内庁の情報公開室の職員達が2001年の情報公開法施行以後に直面したような膨大な仕事量に飲み込まれる可能性が高いことは自覚した方がよいように思う。
今まで書陵部で資料が見れなかったりした人達が、大挙して押しかけて不服申立をしていく可能性もあるだろうし。

しかし、もっとこういったことには怒らないといかんよなと思う。横で閲覧していた人は2003年に請求した文書を見ていたが、別に特に不満を漏らさずに帰っていった。

どうしても書陵部相手だと「見せてもらっている」という感覚になりがちだ。
別に喧嘩腰になれと言っているわけではない。私も話すときは非常に穏健に話している(つもり)。
だが、論理的に詰めるところはしっかりと詰める。理詰めできちんと不満を伝えている。そうしなければ、何も相手に伝わらないのだ。

書陵部で資料を閲覧している人で、やはり不満がある人は、きちんと相手に伝えるべきだと思う。
そこで馴れ合っていてはいかんのではないだろうか。

秘書課雑件録昭和33年 [宮内庁書陵部]

木曜日に宮内庁書陵部に、史料を閲覧しに行った。
前のブログに書いた、公開文書をみるためである。
この「秘書課雑件録 昭和33年」であるが、正直内容は全く期待はずれであった。
なので、せっかくだから、この簿冊の目次を下記に打って、皆様の参考にします。

1.新年賀表等
2.正倉院事務所へ祝酒料伝達の件
3.在外大公使からの新年賀表
4.皇后陛下御誕生日表賀の件
5.皇后陛下御誕生日賀表
6.京都御所小御所上棟祭執行の件
7.天皇誕生日賜りの件
8.天皇誕生日表賀の件
9.天皇誕生日祝賀電報等
10.衆議院議員総選挙及び最高裁判所裁判官国民審査投票当日の便宜供与の件
11.正倉院御開封及び御閉封通知電報
12.文書のタイプ浄書の件
13.イラン国皇帝陛下御来訪関係員に対し両陛下から賜りの件
14.京都御所等火災防ぎょ計画の一部改正の件
15.京都事務所行事報告(昭和三十二年十二月~三十三年六月)
16.正倉院御開封及び御閉封通知電報
17.園遊会当日の護衛警備実施状況の件
18.聖語蔵開封報告
19.京都小御所落成式関係
20.皇太子殿下御婚約内定の件
21.皇太子殿下御婚約祝賀電報
22.昭和三十四年元日職員表賀の件
23.昭和三十四年元日賜りの件
24.フィリピン国大統領来訪関係尽力者に賜りの件
25.昭和三十四年新年一般参賀職員出役に対し給与の件

と、見てもらえば分かるとおり、これは本当の「雑件」録である。
しかも、賀表なども個人情報保護という名目で、誰が上げているのかが完全に隠されているので、件数なども全く不明である。

また、書陵部の非公開のやり方は、ページ全てを隠してしまう方式である。
これは、原本を見せる際にはマスキングができないので行われる手法であるが、今回の私のものはコピーの閲覧であったのにもかかわらず、同じ対応をされた。
しかし、これでは、隠すところが多くなればなるほど、そのページに記載のある他の情報までも消されてしまうことになる。

しかも、書陵部では公開された方法について異議申し立てが一切認められていない。
今回はハズレの史料であったからよいものの、そうでないものであった場合、公開方法を工夫してもらう必要があるのではないかと思った。(もし当たりであったならば、大正天皇実録の公開方法でマスキング方式を取っているから、その方式を求めることになったであろうが)

さて、あと残っている侍従職業務日誌であるが、話によると呉竹寮(皇女達が住んでいた所)の日誌とのことである。
おそらく見る意味のない史料だと思う。(しかも個人情報の固まりであり、おそらく上記の方式で公開されるのであれば、ほぼ白紙になるであろう)
初めからそのようにデータベースに書き込んであれば、請求はしなかった。
前から述べているように、目録の表題は正確に付けて欲しいと思う。
結局はお互いに損をしているのだ・・・


書陵部公文書の公開手順 [宮内庁書陵部]

先日のブログで述べたように、宮内庁書陵部にも公文書が保存されており、そのリストが公開されている。
その文書の請求をした後、どのような内部手続きがあるのかを紹介してみよう。
なお、某所で聞いた「また聞き」話なので、正確でないかもしれません。正確な情報をご存じの方がいれば教えてくださいませ。

まず、申込は書陵部図書課公文書係で受け付ける。
受け付けたものを書陵部内で審査を行い、公開できるかの判断をする。(専門の近代史研究者が関係しているかはわからない)
ここで問題ないとされたものは1ヶ月程度で出てくるらしい。(もちろん分量によるだろうが)

問題は、そこで判断ができなかった場合である。
この場合は、宮内庁の官房秘書課にある調査企画室という部署に回される。
そして、そこの審議官が最終判断をして、公開するか否かを決めているらしい。

その審議官というのは、「法律の専門家」ということらしいが、要するに官僚である。
そして、ここにまわされると、どうもすぐには公開されないようなのである。
官房秘書課の中には情報公開室も含まれており、結局はここで情報公開の最終判断が行われるということなのだろうが、ここの部署はあまりにも「慎重」すぎる傾向があるのだ。

例えば、数年前に公開になった「大正天皇実録」を覚えておられるだろうか。
「実録」とは、天皇の公式の伝記であり、宮内庁が作成している。
この「大正天皇実録」は2002~3年にかけて、1912年から1921年までは公開された。
しかし、その後の公開は完全に止まっている。
そして、どうも噂によると、書陵部の作業はとっくに終わっており、審議官の所で公開が止められているようなのである。

ただ、一度審査を受けて公開になった文書は、その後は無審査で見ることができるようになるらしいので、多くの人が使えば使うほど、「問題のない」文書は見やすくなるようだ。
まずは使ってみることが大切だと思うので、興味がある文書があれば、積極的に書陵部にアクセスしてみると良いと思う。

追記(9/6)
どうやら、さらに元の文書を保管していた部署に精査が行っているらしい。
遅れているものは、その部署が放置しているという可能性がありうるようだ。


内大臣府内廷録 [宮内庁書陵部]

昨日、書陵部について書いたので、昔見たことのある史料について少し紹介してみたい。
それは、内大臣府の「内廷録」(昭和20年、追加も含む)である。
「内廷録」という名前からでは全く何が入っているのかわからないが、内大臣に送られてきた投書・意見書の類である。

中身を少しだけ紹介してみよう。
徳富蘇峰(大日本言論報国会名義)の「非常大権の発動を請ふ」が、1945年3月29日付で内大臣府に提出されており、首相にも参考に回されたことがわかる。
この文書の原本は入っていなかったが、請願書の一覧に記載があった。
最近出た『徳富蘇峰 終戦後日記』(講談社)にも似たような内容のことが書かれており、実際に徳富が意見書を提出していたことがわかる。
他にも、東条英機を内乱予備罪で告発するという投書(内部で却下されている)や「俺に首相をやらせろ」という投書などもあり、実際の私の研究には利用できなかったが、見ていて楽しい文書だった。

一番興味を引いたのは、静岡の竹山稔という人が書いた請願である。
1944年2月11日の日付が入っているこの文書には、自分が南朝の長慶天皇の末裔であること、国威宣揚祈願をしたこと、そして長慶天皇陵が京都府に治定されたことに対する遺憾の意が表されていた(要するに、自分の所に「本物」の陵があるということ)。
この竹山という人は、保阪正康の『天皇が十九人いた』(角川文庫)などに書かれている、戦後直後に現れる「自称天皇」の一人「竹山天皇」である。
保阪の本によると、竹山は昭和10年代にすでに宮内大臣宛に「われこそ天皇である」という手紙を出していたらしく、その後内大臣宛にも何度も手紙を出したらしい(前掲書31頁)。
つまり、これはその出したものの1つであるということなようだ。
このような投書もきちんと残っているのだなあと、驚いたことを覚えている。

書陵部のリストにある内大臣府史料は、内廷録の他に、進退録、行幸録、業務日誌ぐらいしかなく、どう見てもこれで全部でないだろうなというのが明らかである。
他に何を持っているのか、興味は尽きないのだが・・・


書陵部史料 [宮内庁書陵部]

昨日、宮内庁書陵部図書課公文書係に電話をして、書陵部所蔵の公文書の請求を行った。
請求したものは、侍従職業務日誌(昭和33年)と秘書課雑件録(昭和33年)である。

書陵部にある明治以降の公文書は、リストが4月からネット上で公開されるようになった。
http://www.kunaicho.go.jp/syoryobu/eturanriyouannai.html
電話で閲覧の希望を行ってから、内部で審査が行われ、それから公開の運びとなるようである。
公開までの内部での手続きについては、若干某所で聞いたことがあるが、詳細をメモしていなかったので、いずれ正確な情報を得たらブログに書く予定。
審査には、月単位でかかるという話もあるので、気長に待ちます。

しかし、もう少しデータベースは何とかならないのだろうか。
国立公文書館のデータベースみたいに、簿冊の目次があるだけでも、内容の把握が相当に楽なのだが・・・(公開する方も無駄に審査しなくて済むから、お互いにとって利益だと思うんですが)。
それとも、目次を簿冊に付けないという次元の文書管理の仕方をしているのだろうか・・・


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