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「眞子様萌え~」!―皇族の萌えキャラ化に思う [天皇関係雑感]

以前から紹介したかったのだが、うまく分析できなくて書こうか迷っていたネタを、話題提供としては面白いと思うので書いてみようと思う。
論じるというよりも、「どう考えればよいのだろうか」という疑問提示みたいなものです。

まずは、こちらを見てほしい。
ちなみに、かなり「電波」な曲が大音量でくるので、そういったことに免疫がない人は、見ずに下の文章へと行ってほしい。(周りに人がいないことを確認した方がよいかも。)


↑ニコニコ動画のアカウントを持っていない人は、You tube→こちらへ

流れている曲は「ひれ伏せ愚民どもっ!」という曲で、IOSYSという音楽集団が作成したもの。
東方Projectという同人シューティングゲームの音楽をアレンジしたものらしい。曲で「かぐや」と言っているのは、この曲が蓬莱山輝夜(かぐや)というキャラクターをモチーフにしているからのようだ。(Wikipediaでここまでは調べたがそれ以上は私にはよくわからない。)

さて、別に取り上げようと思ったのはこの曲の方ではない。
「絵」の方である。
どこかで見たことのあるような・・・、とは思わないだろうか。
「秋篠宮眞子内親王」である。
それをデフォルメして、萌え絵にしてあるのだ。
皮肉でもなく、本当に「うまい」と思う。良く特徴を捉えている。

この画像をまとめてみたい場合は、こちらのサイトを見てほしい。
秋篠宮眞子様御画像保管庫
このページの「マコリンペンイラスト保管庫」を見ると、絵の一覧がある。

初めてニコニコ動画でこれを見たとき、天皇制研究をしている私でもカルチャーショックがあった。
皇族を「萌え」の対象にするというアイデアがそもそも考えつかなかった。
もちろん、女性週刊誌などによる皇族の子どもたちを愛でる報道などは、現皇太子が子供の頃からあったし、そのときに3兄妹は「なるちゃん」(徳仁(なるひと))、「あーや」(礼宮(あやのみや))、「さーや」(清子(さやこ))と呼ばれていたことも知っている。
でも、それは大人が子供を「かわいい」ものとして見る視点であったように思う。

この「萌え」は、「かわいい」の延長上にあるんだろうか。
「かわいい」と聞くと、すぐに大塚英志氏の論考を思い出す。
大塚氏は、昭和天皇が重態であった1988年末に、記帳に来る女子高生が天皇を「かわいい」と述べたことを、少女達が自分の中にある「無垢」と「孤独」を天皇に見いだしたのではないかと述べた。(「少女たちのかわいい天皇」『中央公論』1988年12月号)
でも、これとは違うような気がする。

むしろ、松下圭一氏の「大衆天皇制」に近いというべきか。
皇族の商品化が進んだという意味では、石田あゆう氏が女性週刊誌の皇族女性の写真分析で述べているような「現代消費社会のファッション天皇制」の延長で見た方が良いのだろうか。(『ミッチーブーム』文春新書)

私はサブカルの知識は少しはあるけど、これをどう分析して良いのかは正直とまどう。
ネット上の言説をいくつか見ていると、「不敬」と罵る人がいる反面、「萌え絵にすることこそ敬愛の証」という人もいるようだ。

残念ながら、今のところこのぐらいしか書きようがない。サブカル研究の人で誰かこういうことを研究してないんだろうか?探せばでてくるのかしらん。

最後に、一番納得した説。
「眞子様は漫画やゲームに出てくる「お姫様」をリアルに表現できる数少ない日本人」
なるほどなあ。

↓おまけ。

女皇の帝国 内親王那子様の聖戦 (ワニノベルス)

女皇の帝国 内親王那子様の聖戦 (ワニノベルス)

  • 作者: 吉田 親司
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 2007/06/05
  • メディア: 新書



女皇の帝国2 内親王那子様の聖戦 (ワニの本 WANI NOVELS 254)

女皇の帝国2 内親王那子様の聖戦 (ワニの本 WANI NOVELS 254)

  • 作者: 吉田 親司
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 2008/02/21
  • メディア: 新書



少女たちの「かわいい」天皇―サブカルチャー天皇論 (角川文庫)

少女たちの「かわいい」天皇―サブカルチャー天皇論 (角川文庫)

  • 作者: 大塚 英志
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 2003/06
  • メディア: 文庫



ミッチー・ブーム (文春新書)

ミッチー・ブーム (文春新書)

  • 作者: 石田 あゆう
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2006/08
  • メディア: 新書


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宮内庁長官発言の裏にあるもの [天皇関係雑感]

2月13日、羽毛田信吾宮内庁長官が定例記者会見で、愛子内親王が天皇皇后に会いに来る回数が少ないことに苦言を評し、大きな反響を呼んでいる。
今週の週刊誌の見出しは、この問題一色で染まっていた。

宮内庁長官が、皇族を記者会見で批判するのはもちろん異例のことである。当然、内部で苦言を呈すればいい話であって、それをわざわざマスコミに公表し、皇太子批判をあおるというのは、普通では考えられない。
しかも、今回は、よく比較で出される2003年12月に、羽毛田長官の前任者である湯浅利夫長官が「秋篠宮様のお考えはあると思うが、皇室と秋篠宮一家の繁栄を考えると、三人目を強く希望したい」と記者会見で述べたこととは意味合いが違う。
湯浅氏のコメントは意図的にされたというよりも、むしろ流れで話してしまったという感じがあったが、今回は相当の覚悟を持ってしたという話なので、天皇の意思が働いたのではと、週刊誌各誌は推測していた。

さて、この問題は明日23日に公表されるはずの皇太子の記者会見でどのような反応が返ってくるかで、また問題が拡大する可能性があるが、今の時点で少し思うところを書いてみたい。
なお週刊誌の記述とダブるような話を書いてもしょうがないので、それとは違った切り口を提示してみる。

今回の報道のおおよその傾向としては、「千代田」対「赤坂」の対立という構図で描かれている。
「千代田」とはもちろん皇居=天皇皇后(宮内庁官房、侍従職)のことであり、「赤坂」は東宮御所=皇太子夫妻(東宮職)のことである。
しかも、その対立は「天皇」と「皇太子」という個人間の対立として描かれており、組織間対立の話は後景に退いているように見える。
しかし、私にはこの問題は個人間対立ではなく、組織の問題が大きいのではないかと考えている。

なお、ここからの話は仮説である。
職員に取材をすれば、私の見解は覆るかもしれないし、逆に補強されるかもしれない。

宮内庁という組織は、一般の企業だけでなく、他の省庁と比較しても、仕事内容の特殊性、組織のいびつさが際だっている所である。
それは大きく上げて次の3点にまとめられる。

①幹部(中堅幹部も含め)の多くは、他省庁からの出向組で固められ、内部からの幹部登用が少ない。そのため、職員の士気が高いとはいえない。
②仕事内容がルーティンワークしか存在しない。また、徹底した「先例主義」であるため、それに従うことが仕事の全てになりがちになる。さらに長期間勤めないと仕事内容についていけない。
③縄張り争いが激しい。特に東宮職と本庁の間。


まず①について。
宮内庁は、戦前の宮内省時代から他省庁出向組が幹部に登用されることの多い省庁であった。
1943年(昭和18年)の時の、宮内省幹部83名の職歴の調査によると、文政官僚36人(43.4%)、宮廷官僚26名(31.3%)、軍官僚12名(14.5%)、その他9人(10.8%)となっている。(デイビッド・タイタス『日本の天皇政治』サイマル出版会、1979年、97頁)
軍官僚のほとんどは侍従武官府(軍からの奏上の取り次ぎを行う機関)の人間だとおもわれるので、文政官僚の多さは際だっている。
しかも、この36名のうち、内務省出身者は15名(18.1%)を占め、最大勢力になっている。
戦前の天皇は、統治権総覧者であったので、政治的にも最重要の位置を占めており、内務官僚がその中心を握っていたことがこのことからも伺える。

戦後になっても、その傾向はあまり変わっていないとされる。
ただし、内務省は解体されているので、その代わりに外務官僚や警察官僚、自治官僚が入り込んでいるようだ。
これについては、詳しいデータは存在しない。タイタスのように証明した人は今のところいない。
しかし、例えば、儀式(例えば晩餐会)を統括する「式部官長」は、1957年以降すべて外務官僚が就任している。
他にも、ある課長のポストが、某省庁から必ず派遣されてくるといったような、各省の利権となっているポストもあるという話がある。

このような状態だと、まず宮内庁内部の職員の士気が上がるのかという問題が考えられる。
次に、出向組が宮内庁の仕事をどこまでこなすことができるのかという問題も挙げられる。
特に数年だけいて、また本省に戻っていく人であれば、まず無難に勤め上げて、帰る日を待つということになるのだろう。そこから、新たな発想が生まれるとは思えない。(②に関わる話でもある)

次に②について。
戦後の日本国憲法下では、天皇は基本的には「ハンコを押すだけの人」になった。
国事行為が明確に憲法に規定されたことにより、自らが政治的に動くということも禁じられた。
戦前では、内大臣や宮内大臣といった、天皇の側近やそれに関係する部下達は、調整に走り回るということもあったわけだが、現在はそのような仕事は一切存在しない。
現在では、宮内庁は定められたルーティンワークをひたすらこなすというのが、その大部分の仕事になってしまっている。

つまり、宮内庁という省庁は、「新しいことができない」ところである。
そのため、常に「先例」にどう従うかということだけを、徹底して追究することになる。

しかし、この「先例」がなかなかやっかいなものなのだ。
例えば、ある儀式をやろうとした場合、明治時代あたりからの日誌を引っ張り出して調べたりするような作業を強いられるのである。
これは、ある意味「職人芸」の世界であり、外部から出向して来て、いきなり対応できるものではない。
ある週刊誌によると、雅子妃と近いということで起用された東宮大夫(東宮職のトップ)である野村一成氏が、「もっと自分は何かできると思っていたが」と漏らしていたという話を書いていたが、外務官僚として40年も勤めた人でも、宮内庁という世界はとまどうことのほうが多いのだろう。

ただ、問題はこの「職人芸」が宮内庁の官僚達もできるのかということがある。
昭和天皇の時代は、侍従などの側近に、旧華族で天皇個人への忠誠心もあつい人が多く存在した。
代表的なのは入江相政であり徳川義寛だったわけである。
現天皇も、皇太子時代には、黒木従達や戸田康英、浜尾実といった旧華族家出身の側近が周りを固めていた。
だが、今の皇太子にそれに該当する人は存在しない。曽我剛東宮侍従長が2001年に亡くなってからは、「職人芸」を持ち、皇太子に絶対の忠誠を誓うような職員がいなくなっているのではないか。
だから、皇居や東宮御所での行動がマスコミにダダ漏れになるのを誰も制御できないのではないか。

つまり、「職人芸」を持たないのに、その「職人芸」を求められているのが現在の東宮職の現状なのではないか。(本庁の方は、職員数も多いし、その点はマシだと思われる。)
皇太子や雅子妃を必死になってかばおうと東宮職がしても、優秀な人材もいないような現状ではうまく回っていないというところなのではないか。

最後に③について。
もともと、東宮職というのは本庁から不満を言われやすいところでもある。
秋篠宮家の職員は、官房の宮務課に属しており、地位もそれほど高くないため、官房の意思が比較的貫徹しやすい立場にある。→宮内庁組織図
しかし、東宮職は官房や侍従職と並ぶ立場にある。
そしてさらに、場所も離れているので、本庁の意思が貫徹しにくい。

皇太子が皇居に住まないというのは、明治期以降ずっと続いてきた。
そのため、教育がうまくいっていないと天皇周辺から文句が出るというのは、大正天皇、昭和天皇、現天皇と、必ず起きている。
例えば、現在の天皇に関しても、入江相政日記には、東宮職に対して文句を書いている部分が散見される。

東宮職は皇居から離れているが故に、そこだけでまた一つの文化圏を作り上げる傾向がある。
そのため、「千代田」から批判を受けることも多く、それがさらなる反発を呼ぶことがある。
つまり、縄張り争いが激しいのも、ある意味「先例」なのである。
ただ、入江の時代には、東宮職と侍従職が定期的に会議をして、言いたいことを言い合っていたことも日記からは見て取れる。

現在の侍従職と東宮職、そして官房は議論がきちんと行える関係なのだろうか。
問題となった長官発言に対して、野村東宮大夫が憮然として記者会見をしていたということからわかるように、少なくともまともに議論ができるような関係は築けていないようである。

以上、3点を上げて、長官発言の裏にある状況を考えてみた。
天皇と皇太子の関係がこれほどうまくいっていないのは、周りにいる職員の問題が大きいはずである。
そして、その問題はおそらく構造的な問題であり、東宮職職員や長官を責めれば良いという問題ではないのではないだろうか。
しかし、では大改革ができるのかというと、それは皇室をどのように国家機関として位置づけていくのかということを考え直すということでもあるので、これは非常な困難を伴っている。
まずは、各関係機関の職員同士が、腹を割って話し合うというレベルから始めるしかないのではないだろうか。

小泉純一郎ではないが、「壊し屋」的な長官が必要な時代なのかもしれない。宮内庁の世界にはまってしまえば、現状維持が精一杯であろう。
それを無視して思い切ったことができる人がトップにならない限り、いつまでもこの問題は引きずっていくことになるのではないかと思う。


大正天皇実録の公開 [天皇関係雑感]

9日の日経ネットの記事。すぐに見れなくなるのでコピペしておきます。

大正天皇の最晩年、公開へ・「実録」年度内に

 宮内庁は大正天皇がかかわった事件や日常の行動などを記録した文書「大正天皇実録」の天皇最晩年にあたる5年半分を2007年度内に公開する。この時期は摂政に就任した皇太子(昭和天皇)が公務を担っており、記述も摂政関連のものが多いという。実録はこれまで即位から9年間分が公開されており、今回で天皇在位期間中の文書すべてが明らかになる。

 大正天皇実録は計85冊(ほかに年表、索引など12冊)あり、1937年に完成したが、長らく非公開だった。2002年に大正天皇が即位した1912年 7月から14年6月まで2年分計8冊(48―55巻)、03年に14年7月から21年6月まで7年分計21冊(56―76巻)が公開された。
(引用終)

前のものが公開されてからほぼ5年ぶりの開示である。
一応、作業は進めていたということなのだろうが、それにしても5年は長い。
どうしてこれだけの時間がかかったのかをきちんと説明してほしいが、おそらく公式見解を淡々と述べるにすぎないだろう。(以前少し書いたが、私の裁判とかが遅れる原因となっていた可能性はありうる。もちろん、宮内庁だってそんな見解は述べないだろうけど。)

問題は、開示される内容である。
おそらく病歴の部分は不開示確定。それ以外にどの部分が不開示なるのだろうか。
この点については、開示後すぐに原武史氏や季武嘉也氏あたりにマスコミが持ち込んで、分析をしてもらうことになるのだろうと思われる。
それを見た上で、改めてそのときにコメントもしてみたい。

また、これで終わりではない。皇太子時代の部分もまだ未公開のまま残っている。この点を忘れてはいけないと思う。


宮内庁が報道への反論を始めたことについて [天皇関係雑感]

情報公開のシンポなどで忙しかったので、ずっととりあげようと思っていてほっておいたものを取り上げてみたい。

宮内庁は、昨年12月末に、ウェブサイト上に「皇室関連報道について」という項目をもうけ、週刊誌の事実と異なる報道に対して反論を行い始めた。
今のところ、反論の内容は、記事の方向性というのではなく、「事実の間違い」という点に絞って行われている。
この話には、前提となる話がある。
それは12月20日に行われた天皇の誕生日記者会見での発言である。

12月20日に行われた記者会見で、皇太子妃を含めた家族の様子についてコメントを求められた天皇は、「私は,家族が,それぞれに,幸せであってほしいと願っており,それを見守っていきたいと思っています。」と述べた後に、相当に強い異例のマスコミ批判を展開した。
それは5月14日に行われた欧州訪問前の記者会見の発言を、自分の意図とはねじ曲げられて報道されたということから発したものであった。

天皇はこのときの記者会見で、自分の皇太子時代の外国訪問について、「国賓に対する答礼」のために「天皇の名代」として訪問することが多く、そのために相手国に失礼にならないように「自分自身を厳しく律して」きたと述べ、さらに「このような理由から、私どもは私的に外国を訪問したことは一度もありません。」と付け足した。
これが、前年にオランダを静養のために私的に訪問していた皇太子夫妻への批判であると受け止められた。
そのため、天皇は次のような発言をしてこの質問の答えを締めた。

「このように私の意図と全く違ったような解釈が行われるとなると,この度の質問にこれ以上お答えしても,また私の意図と違ったように解釈される心配を払拭(ふっしょく)することができません。したがってこの質問へのこれ以上の答えは控えたく思います。」

天皇のマスコミとのつきあいは、60年以上に及ぶ。
戦後になってから、当時の皇太子は常にマスコミに囲まれた生活を送ってきた。
昔の新聞や週刊誌を読んでいると、友人達の皇太子評が良く出ているのだが、その代表的なものは「嘘をつかれるのが大嫌い」だった。
特に、マスコミに対して嘘を話したとバレると、友人としての縁を切るぐらいのことは平気でしていたようだ。出入り禁止になったという話もいくつか読んだ記憶がある。

天皇の学友として知られる橋本明氏(元共同通信記者)の本でも、ご成婚の時に皇太子の発言を無断で報道したことを謝りに行ったときに、「内容に一部誤りがある」として叩きだされたことが書かれている。(『昭和抱擁』日本教育新聞社、P215)
書かないという約束を破ったことよりも、むしろ内容に誤りがある方を皇太子が気にしていたことがここからは伝わってくる。

現天皇にとっては、マスコミは避けることのできない相手であり続けた。だからこそ、「正確な報道」というものに、ものすごく神経質であったことがよくわかる。
だから、この訪欧記者会見を誤読されたことは、天皇にとってどうしても我慢ができなかったことだったのだと思われる。

またおそらく、雅子妃の病状に関する一連の報道に対して、不満がずっとくすぶっていたのだろう。
だから、自分の発言が少しでもその歯止めになると期待した上での発言だろう。
天皇は、自分の発言がどのように影響を与えるかということも考えた上で発言をしている節があるからだ。(日韓サッカーW杯前の天皇家に百済王族の血が混ざっている発言など)

さて話題を初めの話に戻すが、宮内庁はこの天皇発言を受けて、週刊誌などの間違った事実に対して反論をし始めたわけだが、これが意味があることなのかは、正直疑問を感じざるを得ない。
以前、ベン・ヒルズの『プリンセス・マサコ』の話でも書いたが、ほっておくのが一番よいのである。
先週の週刊新潮か文春かどちらだったか覚えていないが、「自分たちが書いたことに対して批判がなかったので、これは否定できない事実なのだ」という書き方をしていた。
つまり、こういった反論は、逆に反論しなかった事実関係にお墨付きを与える可能性が高いのである。

宮内庁は現在までに、3つの反論を挙げているが、初めの『女性セブン』に対するものを除くと、それほどたいした内容でもない。
3つめの『サンデー毎日』への反論は、「雅子妃と実家の小和田家の両親が正月の昼食を東宮御所で共にした」ということは事実に反するというものであるが、他誌を見れば、これが「夕食」だったというのが正しいのであって、正月に両親が来なかったわけではない。
現に、「夕食」と書いた週刊誌には批判をおこなっていないわけだ。

このように、宮内庁は反論すればするほど、実は泥沼にはまるのである。
戦前のような出版検閲がかけられない以上、マスコミとは是々非々でつきあっていくしかしょうがないのである。

天皇の発言があったところで、おそらく雅子妃バッシングは続くであろう。
バッシングは、現天皇皇后が天皇制の存在意義を「公務や儀式への熱心さ」によって証明してきたことによって、逆にそれが公務や儀式に参加しない雅子妃への批判につながっている構造なので、天皇皇后が熱心に職務をすればするほど、バッシングは続くのである。

結局は、時には天皇発言でにらみを効かせながら、あとは耐える以外に手段はないはずなのだ。
宮内庁は、「公的な反論」という禁断の果実を取ってしまったのだ。
おそらく、この反論のページは、いずれ更新されなくなるか、消えるのではないかと、私は推測している。

追記
実は、この12月20日の記者会見で、天皇はもう一つ重要な発言をしている。
それは、追加質問のところで、昭和天皇の「聖談拝聴録」を天皇は読んだことがあるかと聞いた質問に対して、天皇は一切知らないと明言したのである。

「聖談拝聴録」は、侍従長であった入江相政の日記に出てくるのだが、晩年の昭和天皇が入江に話した回顧録のことである。
何回も推敲して完成したもので、卜部亮吾日記によれば、入江の死後、次の侍従長だった徳川義寛が持って帰っていて、後日宮内庁に戻されたという。

この拝聴録は、情報公開法に基づいて請求が行われた結果、公文書として存在しないということで決着している。
そのため、「天皇のお手元資料」として「天皇の私物」になっていると思われていた。
しかし、これを天皇が明確に否定したのだから、さて一体どこにあるのやらという話になるわけだ

今後、一体どこで管理をされているのかということが、問題になる可能性があるだろう。


週刊新潮「「天皇のお言葉」の秘密を暴露してしまった「元外務官僚」」について [天皇関係雑感]

今週発売の『週刊新潮』(2008年1月3日・10日号)で、気になる記事を見つけた。

「天皇のお言葉」の秘密を暴露してしまった「元外務官僚」
元外交官の原田武夫氏(36)が、自身のブログで次のような問題発言をしている。
天皇皇后のオランダ訪問(2000年)の時の晩餐会のスピーチの文案を書いたのが自分であること、オランダ訪問がオランダ人従軍慰安婦問題について心を痛めていた天皇皇后の意志であったこと、そのスピーチではそれに対する和解の言葉が入っており、天皇は直前まで外務省作成の「お言葉」案に手を入れていたという。

新潮による批判の内容は、その天皇の「お言葉」の作成過程を漏らしたこと、そもそも原田は当時20代の若手官僚であり自分が書いたなどというのは言い過ぎであること、オランダでの晩餐会スピーチには上記のような内容はないこと、天皇が手を入れているということは外交に天皇が直接関与していることになるのでありえないこと、オランダに「従軍慰安婦」問題で謝罪の意志を持っていたと明言することで韓国政府に利用される可能性があること・・・といったところだ。

さて、ではまず早速そのブログのおおもとを見てみたいと思う。

原田武夫国際戦略情報研究所公式ブログの2007年11月14日
LONG VACATION、そして天皇陛下が語られる「外来種」

・・・・
「週刊新潮」さん。あなたが保守側から論を立てていることはよく知っていますが、怒るところはそこだけでよいのですか?

なんというか、すごい文章だ。
初めはドラマのロンバケの話から始まるのだが、まあそこはどうでもよい。
次に来る話は、11月に天皇が「全国豊かな海づくり大会」(滋賀県)で、自分がアメリカから持ち帰ったブルーギルが大繁殖して生態系を脅かしていることに心を痛めているというスピーチをしたことを紹介する。
ここで原田氏は、天皇が言っている「外来種」とは別の意味があると主張する。

次に天皇の政治的な役割について触れた後に、新潮が取り上げたオランダの話が入る。
そこから、話は飛んでいくのだ。日本はアングロサクソンに毒されていて、現在「国難」にあると。

そして結論。文章を引用する。
「しかし、いかに62年前のあの時、それまでのシステムが強制終了となったとはいえ、その後にとりいれられたものは「外来種」にすぎないのだ。そして、それがどれほど我がもの顔をして跋扈していたとしても、在来種の存立すら危うくするのであれば、徹底して駆除されるべきなのである。そのことは、自然界に最終的には包含される人間界においても全く同じなのだ。
(中略)
天皇陛下が口にされた「外来種」というお言葉は、そう考える全ての日本人に対する激励の言葉なのだ。」

えーと。どこからツッこんでいいんだろう。
天皇の発言を、自分の主張したいことに勝手に結びつけて牽強付会の結論を導き出している。
原田氏は「元」外交官だが、もし現役の外交官がこういった考え方をしていたとしたら大問題になる。
これこそ、典型的な「天皇の威光を借りた」言説というものであろう。

週刊新潮は「従軍慰安婦」の話を取り上げたくて書いたんだろうけど、その部分ははっきり言って新潮の「マッチポンプ」に過ぎない。
新潮が書いているとおり、当時20代後半の外務官僚ができたことはたかがしれており、そのブログの内容が外交的に利用されるなんてありえるわけない。新潮自身が自分でそれを証明している。
それに、前後の文脈を見れば、この文章そのものがまともに検討に値するか否かなんて、すぐにわかることだ。いくら韓国政府だって、こんな文章で譲歩を迫ってくるなんて恥さらしなことはしないだろう。

結局、この話は、自分で研究所を主催している元外交官が、外交官時代の自慢話を兼ねて、天皇の発言を利用して自分の意見を権威づけて見せようとしただけにすぎないと思う。
そもそも、天皇皇后のオランダ訪問は日蘭交流400周年記念で行ったものだし、スピーチに手を入れている可能性はあると思うが、外交的に問題になるような言説を天皇が勝手に入れるようなことはしないと思う(現天皇のそのあたりの憲法理解度は高いと私は考察している)。

なんだか、タイトルにだまされた気分。まあ買わずにコンビニで立ち読みした人が言う台詞ではないが。


一般参賀に思う [天皇関係雑感]


12月23日の天皇誕生日に、大学時代の友人と皇居の一般参賀に行ってみた。
私は良く色々な人に(もちろん留学生を含め)「日本にいるなら一度一般参賀は見に行っておけ」と言っている。

別にそれは天皇に万歳してこいとかそういう次元ではなく、天皇制とは何なのかを考えるには、まず「体験」が必要だということを言いたいためである。
その結果として天皇制支持になろうが反対になろうが、それはどうでもよい。
ただ、天皇制を巡る議論は、空想で語るのが一番不毛であると考えているので、まずは「体験しておけ」ということなのだ。

一般参賀は、1月2日と天皇誕生日の2回行われる。
これが始まったのは1948年のことである。(詳しくは、自分の書いたものでもうしわけないが、『岩波天皇・皇室事典』の「一般参賀」の項を参照。)
現在では、確実に皇室一家と対面できる数少ない機会として機能している。

私が一般参賀に行くのは通算で3回目である。
入場は二重橋からなので、その付近から入るのだが、近くで日の丸を配っている人が必ずいる。
前に『神社新報』(神社本庁の機関紙)で、この日の丸を配る運動についての記事を見たので、おそらくそういった団体が存在するのだろう。

しばらく行くと検問がある。そこで荷物検査とボディーチェックを受ける。
昔の記憶だと荷物検査はあったが、ボディーチェックはなかったような気がしたのだが。女性警官にえらく念入りにさわられるので、なんだかこそばゆくてしょうがない(苦笑)。

そこから二重橋を通って、昭和宮殿の前に立つ。
目の前の長和殿ベランダから皇室一家は手を振るわけだが、入ってくる人はその中心部の手前に集められる。(両脇の方は入れないようにバリケードがある)
報道カメラは、その中心部の一番後ろに陣取っており、そこから撮るとものすごい数の人が来ているように見えるような仕組みになっている。

私は一般参賀では観察者として周りを見ることに終始している。
3回とも共通するのだが、外国人がものすごく多い。見た目で分かる白人・黒人系だけでなく、明らかに話している言葉がハングルだったり中国語だったりする人が結構いる。
右翼の集団も服装(黒スーツの集団+明らかにボス的な人がいる)ですぐに分かるが、これは思ったよりは多くはない。
そして、天皇が出てくると、この一部の集団が「天皇陛下万歳」を叫び出す。(以前行ったときは「国歌斉唱」と叫んで歌っていたが、今回はたまたまいなかった。)
それに対し、周りの人はあまり万歳には同調しない。ただ旗が振られるのである。
万歳と旗を振ることの間に心理的な壁が存在することは、こういった場にいるとものすごく実感する。
一番始めに一人で行ったときに、試しに旗を振ってみたことがあるが、この同調性は気持ちいいなあと思った記憶がある。

参賀は天皇があいさつをして、それからしばらく手を振っていると、後ろから担当官が出てきて天皇を呼び、その後ゆっくりと中に入って終わりということになる。およそ5分間というところだろうか。
その後はあっさりしたもので、みな粛々と帰りの門へと向かっていく。

文章で説明するのはあまり面白いものではないと、書き終わってから思ったのだが、まさにそういうものである。これは行ってみないと面白さが分からない。
是非、一度は軽い気持ちで行ってみたらどうだろうか。色々なことを考える題材を与えてくれるものだと思う。

岩波 天皇・皇室辞典

岩波 天皇・皇室辞典

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2005/03/11
  • メディア: 単行本


卜部亮吾侍従日記の読後感 [天皇関係雑感]

昭和天皇の晩年に侍従を務めた『卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞社、2007年、全五巻)が出揃ったので、頭から全部通読してみた。

卜部亮吾は、1924年(大正13年)生まれ。人事院の官僚であったが、総裁であった佐藤達夫(元法制局長官、日本国憲法制定に関わったことで有名)が、人事院から宮内庁に何名か侍従として人材を送り込んでおり、その中の一人として1970年(昭和45年)に侍従となった。
1981年には侍従職の事務主管となり、昭和天皇の死後の1991年まで侍従を務めた。2002年に死去。

この日記を一読して思うのは、宮内官僚の行動パターンというのが非常に色濃く出ているということである。
特に、「先例」への極端なまでのこだわりというのは、おそらく宮内庁独特のもののように思う。
何かあれば、明治大正の頃まで遡って先例を探し、そのときにどのような対応をしていたのかを元にして、政策が決まるというシーンが、これでもかというばかりに登場する。

また、この日記には、入江日記のような天皇の肉声はあまり出てこない。本当に官僚が自分の業務について淡々と書き続けたものである。その意味では、研究者以外が読んであまり面白いものとは思えない。
解説の御厨貴氏が書いているのだが、「この日記は、宮内庁というちょっと普通ではない役所に勤めているサラリーマンが、営々としてつけた日記という点に特徴がある」(第5巻、495頁)というまとめは、この日記の特徴をずばりと言い当てていると思う。

この日記をどう読むかという点については、『論座』2007年11月号に載っている、半藤一利氏・御厨貴氏・原武史氏の座談会「永世現役を願った昭和天皇の執念―『卜部日記』を読んで」が非常に良くまとまっているので、そちらを参考にしてほしい。

以下は、私が思ったことを備忘録的に書いておきたい。

まず、侍従とマスコミの関係が非常に細かく書いていることがある。
卜部は、事務主管になってから、昭和天皇の死去前後まで、マスコミ対策の中心を担っており、また記者達も卜部から情報を得るために、頻繁に卜部と接触していた。
そのため、流水会といった朝日新聞などのマスコミ関係者と会食する例会があったりするなど、宮内記者達との交流が多く見られる。

しかし、それでも、そのマスコミをコントロールできていたわけではなく、むしろ色々とスクープをたたき出されては、その対応に追われている様が浮かびあがってくる。
例えば、次の記述はそのもっとも典型的なものであろう。

「22日の〔新年用〕お写真と前日の理髪についてお願い 新聞に書かれないようにとの仰せ、(中略)記事回避の申し入れ総務課にしたところ日経夕刊にすでに出てるとのこと 凄く腹が立ち退庁帰宅、ビール夕食、報道担当を返上しようかと考える、フテ寝」(1987年(昭和62年)11月18日)

昭和天皇から書かれないように(皇后の体調の関係もあったため)頼まれたので、報道規制をしようと思ったらすでに報じられていて、腹が立ったということである。
このようなことは、何度も出てくる。
卜部日記だけでは状況は全てわかるわけではないが、きちんと分析してみると面白いのではないかと思っている。

次に、昭和天皇死後の御物整理の話が非常に興味深かった。
入江日記にも記載のある「聖談拝聴録」を徳川義寛元侍従長が持って帰っていて、死後に宮内庁に返還された話などもあったのだが、それよりも気になったのは、1993年(平成5年)に北白川祥子皇太后宮職女官長が、昭和天皇の大正末期の日記を発見して卜部に連絡したということから始まる記述である。

卜部は翌年2月7日、北白川女官長からこの日記を預かり、抄録を残すことになる。
そこには次のような記述がある。

「女官長から「御日記」あずかる 原本は処分の方向 遺したい部分 伺ったことにして書いたらと」(1994年(平成6年)2月7日)

そして、卜部はワープロを使って、この抄録を作り始める。しかし、その中で意図的に史料を変えている(わざと記述を拾っていない)ことがわかる。

「徳川〔侍従職〕参与を訪ねる 大正13年の「御日記」抄についての意見を伺う 宮中の女官に対する御批判が強すぎるので少し和らげるようにとのこと」(1994年(平成6年)12月13日)

そして1995年(平成7年)2月15日に、大正13年、14年分が完成(33枚と41枚)したことがわかる。
その後も「徳川〔侍従職〕参与から大正14年の「御日記」について御意見 皇族の御結婚と愛妻のことはいかがかと」(同年4月20日)と、内容を変えていることが伺える。

最後にこの日記は、皇太后(香淳皇后)が死去した際に、副葬品として一緒に埋葬されたようである(2000年(平成12年)7月22日)。

さて、なぜ原本を取っておかず、抄録(しかも相当に卜部や徳川義寛の意図的な取捨が行われている)を残すことにしたのかが、卜部日記だけではどうもよくわからない。
考えられるとした場合、そもそも日記は公開するものではなく、死者と一緒に焼いてしまうものであるという意識があるが、その一方で内容まで捨てるのは惜しいので、それだけは写しておこうということなんだろうか。
そう考えると、何で卜部は自分の日記を、死ぬ前に朝日の岩井克己氏に渡す気になったんだろうか。やはりよくわからない所だ。

また、情報公開と絡んで次のような記述が見える。

「角田〔書陵部長〕氏から昭和天皇のお手元資料はそれぞれ提出 官庁に原本があると考えられるので情報公開の対象とはならないことについて確認を求めてくる」(1998年(平成10年)10月30日)

この部分はよく文意がとれない。
情報公開法は1999年5月に成立する(施行は2001年4月)ので、これに絡んだことだとはわかる。
しかし「官庁に原本がある」と逆に情報公開の対象となるはずなのだが。これは卜部の書き間違いなのだろうか。
ただ、情報公開法の施行と「お手元資料」(天皇の私物と判断する)の指定のことが絡んでいることだけは確かなようである。

以上、ダラダラと書いてきたわけだが、この日記とクロスチェックできる他の資料が出てくるとありがたいかなと思う。特に、いままであまり気にされていないけど、新聞記者の日記とかが出てくるともっと面白いのではないだろうか。(この日記の監修をしている岩井氏は付けていないんだろうか?)

最後に、御厨氏が解説で書いていることに同感したので、その部分を引っ張って、今日の記事を終えたい。

「もっとも本日記は、生前の卜部が岩井克己記者に発表を託したものだ。とはいえ、一般論として、たとえ付けていたとしても引退後は焼却するのが望ましいとする慎重派は、けっこういるであろう。(中略)確かに宮中・皇室は秘してこそ存在価値のある特別の制度である。(中略)しかし同時に戦後の大衆天皇制の演出がもたらした効果により、常に宮中・皇室以外の世界と、何らかの形での接触と情報発信を必要不可欠とする宿命を負ってしまった。今やマスコミなしの宮中・皇室は考えられない。(中略)こうしたアンビバレントな状況にあって、21世紀の宮中と皇室の行く末を考慮した場合、当事者の焼却の意図の有無に関わらず、形として残されたものであれば、できる限り公開すべしと私は考える。それは不正確かつ不明瞭な宮中・皇室関連情報だけでは常に臆断がつきまとい、絶対に天皇と皇室の依って立つ基盤を盤石にはできないからである。特に昭和天皇の場合は「一身にして二生を生きる」と言ってもよいほど、帝国憲法の規定する天皇から現行憲法の規定する天皇へと、劇的な変貌をとげたのだから、真実の姿に可能な限り迫らなければなるまい。」(第5巻、490~491頁)


ベン・ヒルズ『プリンセス・マサコ』について [天皇関係雑感]

オーストラリアのジャーナリスト、ベン・ヒルズが書いた『プリンセス・マサコ』(第三書館)を読んだ。
この本は、今年3月に邦訳が講談社から出版される予定であったが、2月に外務省と宮内庁が著者に抗議を行い、講談社が出版を中止したいわくつきの本である。(参考:宮内庁の抗議文外務省報道官記者会見
結局、左翼系出版社である第三書館が引き取って、この8月に出版された。
しかし、『週刊ポスト』9月21日号によると、朝日新聞等大手新聞社は広告掲載を拒否したらしい(ちなみに、わたしはこの『週刊ポスト』の広告を見て、出版されていたことを知った)。
早速、内容がどのようなものなのかを確認してみた。

この本の主旨は、雅子妃が鬱病になっているにも関わらず、石頭の宮内官僚が適切な治療も行わず、かつ鬱病の原因となっている皇室慣例の見直しなども全く行おうとせず、あまつさえマスコミに雅子妃は仕事をサボっているだけだと情報をリークして、鬱病の症状を悪化させている。
それを糾弾するために、1冊の本が構成されているのである。
特に、鬱病に対する日本社会(宮内庁がその典型)の偏見を厳しく糾弾しているのが印象的である。

率直な感想を述べると、全体的に間違いも多く、やはり「トンデモ本」の類だと、考えざるを得なかった。
しかし、後半になってくるにつれて、おもしろいと思う部分が若干見られるようになった。

まず、間違いの多さについて。
例えば、大正天皇が詔書を丸めて遠眼鏡にしたという有名な伝説があるが、これを1913年のこととしている(79頁)。
これは本当かどうかもわからない「風説」であるが、いずれにしろ1913年の時には大正天皇は政務をきちんと執っており、あったとしてももっと後の話である。
次に、美智子皇后の年齢を天皇の3歳下と書いてあるところ(85頁)。
これは10ヶ月の誤りである。さすがに年齢を間違えるというところからすると、いったいこの人は何を調べていたのかとやや懐疑的にならざるをえない。
あとは、「宮内庁の地位は世襲制」(89頁→親子2代という人もかなりいるが、世襲ではない。)などなど。

私の知識があるところに指摘が集中したが、他の部分でも、「本当か?」という疑いを持たざるをえないところが散見される。

そして、おそらくこの本の最大の欠点というのは、筆者の「文体」である。
サービス精神なのか、えらく過激な「比喩」や、おもしろおかしくするための過激な言葉を多用する傾向がある。
例えば、
「浜尾は尊大な化石のような存在で」(30頁)
「少なくとも片方は性体験のない新郎新婦は、結婚初夜に下書きのない親しい関係を結ぶことさえできない。」(36頁)
「日本には五十六年間に四十六の内閣ができ、内閣改造も多かったため、ほとんどの大臣はトイレに行く道順を覚えないうちに任期を終えるような状態だったのである。」(49頁)・・・これについては、現状(安倍首相退陣)が当てはまってしまうのだけどね・・・

他にも、いろいろと言い回しに非常に皮肉が籠もっており、外国人の読者を相手にしているのであればひょっとすると笑って済む話なのかもしれないが、翻訳されたときに、この本が「トンデモ本」的な装いを抱かせてしまうのは確かだと思う。
講談社が当初大幅な改訳・削除を行って出版しようとしたときに、この過激な表現が軒並み削ろうとしていたことがうかがえる。(野田峯雄『「プリンセス・マサコ」の真実』第三書館→講談社がどこを削って出版しようとしていたのかの解説本。解説は微妙だが、削ろうとした箇所を見るだけでも面白い)。

こんな本なわけだが、それでもおもしろいと思った部分は、宮内庁のマスコミ規制のあり方が見える点と、ヒルズの日本マスコミへの強烈な批判が挙げられる。

この本には皇太子夫妻の写真などがカラー頁で掲載されているが、これは宮内庁から許可を得て使っているものである。
そこで、ヒルズは次のようなことを書いている。

「(写真の使用の)承認を得るために、二通の手紙に署名しなくてはならない。一通は日本語、一通は英語で書かれている。 そのなかでわたしは、この本に下品なことは一切書かず、何人も中傷することはありませんと厳かに誓っている。ありがたいことに、どちらの言葉も明確に定義されてはいない。」(208頁)

そういうことを求めるんだなあと、これはびっくりした。ちなみに、外務省(豪州大使)の抗議文には、この部分の約束に違反しているということが抗議理由として挙げられている。(ヒルズの「定義されてないから問題ない」という姿勢も問題ある考え方だと思うけど。)

また、ヒルズは、日本の記者達が記者クラブに囲い込まれており、本当のことを書こうとしない。だから、外国の記者の方が自由に「不敬な」事実を書くことができると主張する。(210頁)
例えば、雅子妃が鬱病であると最初に報道したのは、イギリスの『タイムズ』であったことなどを挙げる(294頁)。

これはすぐにそうとは言い切れない部分があるけれども、ヒルズが引用している「皇室報道には「百二十パーセントの正確さ」が要求される」とある日本人記者が語った(205頁)という話とつなげて考えると、こう考えることができるのではないか。
つまり、日本人の場合、確実に証拠が挙がっていないかぎり、宮内庁に不利なことは書けない(たとえば、以前報道された高円宮承子女王の英国放蕩記の類は、ブログという証拠があったから書けた。)。
しかし、外国人の場合、それが100%の証拠はないとしても、ある程度裏がとれれば限定付きで書いてしまうことができるのではないだろうか。

そう考えると、この本そのものがどのような背景で書かれたのかも読み取れる。
つまり、ヒルズはこの本の情報が100%裏が取れていると、そもそも思っていない。 だが、ある程度の情報に確証があると判断したものについては、「自分の責任」でそれを文章にしてしまって構わない。
こういう考えの持ち主なのではないだろうか。
これがジャーナリズム文化の差なのかはよくわからないが、このあたりはおもしろい現象だなあと思う。

結局、内容的には、週刊誌のうわさ話の寄せ集め的なもので、それほど評価はできないと思う。
しかし、なんで宮内庁と外務省はわざわざ抗議などしたのだろうか。
こういう本なら、ほっとけばよいのだ。相手にすればするほど、「自分に都合の悪いことを書いてあるからだろう」と腹を探られるだけだろうに。

プリンセス・マサコ―完訳 菊の玉座の囚われ人

プリンセス・マサコ―完訳 菊の玉座の囚われ人

  • 作者: ベン・ヒルズ
  • 出版社/メーカー: 第三書館
  • 発売日: 2007/08
  • メディア: 単行本


「プリンセス・マサコ」の真実―“検閲”された雅子妃情報の謎

「プリンセス・マサコ」の真実―“検閲”された雅子妃情報の謎

  • 作者: 野田 峯雄
  • 出版社/メーカー: 第三書館
  • 発売日: 2007/08
  • メディア: 単行本


工藤美代子『母宮貞明皇后とその時代―三笠宮両殿下が語る思い出』について [天皇関係雑感]

この本は、ノンフィクションライターの工藤美代子氏が、三笠宮崇仁親王、百合子妃のインタビューを元にして書かれた貞明皇后(大正天皇の皇后)伝である。
早速読んでみたので、感想などを書いてみたい。

これまで三笠宮が書いていたものをそれなりに読んでいる私としては、それほど新味のある話ではなかった。
ただ、三笠宮の歴史認識はやはりバランスが取れているなあと改めて思った。

例えば南京事件について工藤氏が聞いたことについての答え。(三笠宮は1943年に南京に赴任している)

「いや、目にしたというよりは耳にした話です。ある時、下級部隊長をしていた人から、若い兵隊を訓練する時には、生きた人間を銃剣で突き刺さないと肝は据わらないという話を聞きました。私は非常にカルチャーショックを受けまして、士官学校の教育は何だったのだろうと・・・。(中略)虐殺の人数が問題ではないのです。私が戦地でショックを受けたのは、何度も申すように新兵の教育や肝試しには生きた捕虜を使うのがいいとする話を実際に聞いたことだったのです。」(118~120頁)

ここで三笠宮が言っているのは、要するに「日本軍のあり方」そのものに問題があるということである。
虐殺の有無といった問題よりも、そもそもの軍のあり方を厳しく問うているのである。
このあたりは、私の師である吉田裕氏にも共通する問題意識であると思う。(『日本の軍隊』(岩波新書)などはその問題意識の表れだと思う。)

また、戦前の天皇制についても次のように語っている。

「昭和天皇は基本的には絶対主義的なドイツ式憲法に準拠しながら、実際にはイギリス式に変容せざるを得ないという大きな矛盾をかかえてしまわれたのではないでしょうか。
 戦争に対する天皇の責任がよく問題になりますが、その場合には、昭和天皇がこの矛盾にどう対処されたのかの研究が絶対に必要だと考えています。」
(168~9頁)

これは私の戦前天皇制の捉え方と合致するので、余計に評価をしてしまうのかもしれないのだが、戦前の統治システムの本質をおおよそは捉えているように思う。
三笠宮の歴史認識の特徴を見るときに、事件の一つを近視眼で見るのではなく、それがどのような歴史の流れの中に位置づくのかを、かなり自覚的に考えているということがうかがうことができるのだ。
やはり、この方は「歴史家」なのだなと、改めて感じ入った次第。私がそんなにえらそうに評せる立場ではもちろんないのだが、そういう感想を抱いた。

他に気になった点は、工藤氏の解説で「菊のカーテン」という言葉を初めて用いたのは三笠宮である(57頁)という記述は、あまり聞いたことのない情報だった。しかし、これは証拠があるんだろうか?
あとは、貞明皇后の御舟入り(納棺)の時に、「南無妙法蓮華経 南無阿弥陀仏」という紙を書いて、それをねじって棺に入れるという話(219~221頁)は興味深かった。
つまり、葬儀においても、まだ神仏混合が相当色濃く残っているということだ。現在でも続いているんだろうか?

あとは、この本の第1章の記述が気になった。
工藤氏の編集の仕方の問題なのかもしれないが、この章だけ、他の人が書いた三笠宮の情報を否定することに費やされているからである。
1つめは、河原敏明氏の「三笠宮双子説」。
2つめは、『岩波天皇・皇室辞典』の三笠宮に関する記述。
である。

1つめは、『昭和天皇の妹君―謎につつまれた悲劇の皇女』(文春文庫)でまだ読むことができる。
内容は、三笠宮は生まれたときに実は双子だったが、双子を縁起が悪いとする宮中の慣習から、妹の方をいなかったことにして里子に出したという話である。
河原氏は、皇室ジャーナリストとしては非常に有名な人であるが、宮内庁記者クラブに属する新聞記者出身のジャーナリスト達とは異なり、週刊誌出身であり、旧皇族や旧華族にネットワークを張り巡らして、そこから情報を入手していくタイプのため、その情報の独特さは、ほかのジャーナリストとは異質なものだと思う。
その河原氏が、1980年代からずっと主張し続けているのが、この「双子説」である。

今回、工藤氏は、三笠宮妃がその問題が起きたときに「澄宮御側日誌」(「澄宮」は三笠宮の幼名)を調べて、そのようなことはありえないことを調べたという話を聞き出している。
そして、解説の中で、当時宮内庁が、河原氏に対して、「内部調査の結果、その事実はない」と通知をしたということも紹介している。
しかし、河原氏は説を訂正する気はどうやらないようである。(今でも、文庫本として売られているので)

さて、ここで疑問に思うのは、そこまで気にするのであれば、証拠の資料を出せば済む話ではないかということだ。
つまり、宮内庁や三笠宮家で調べた結果、ありえないとわかったのであれば、その証拠となる資料を公にすればよいのだ。
それをしないから、河原氏は「宮内庁が隠しているだけ」と開き直るわけであり、この点については、宮内庁の対応のまずさがあるのではないかと思う。

2つめは、吉田先生と原武史氏が編集した『岩波天皇・皇室辞典』の三笠宮の項目に誤りがあるという点である。
この話は、私も他の項目の執筆者であったので、三笠宮家から抗議が来たという話は耳にしていた。
これは執筆者のミスであると言わざるを得ない。
しかし、工藤氏は、なぜかその解説をする時に「編者」の名前だけ(つまり吉田・原のみ)を出して批判をしている。
もちろん、編者に責任があることは明白なのだが、執筆者の名前をなぜ書かないのであろうか。
その執筆者は、保阪正康氏である。もちろん、署名入りでこの記事を書いている。
別に工藤氏になんらかの意図はないのだろうが、何となく腑に落ちなかった。
もし私が自分が書いたところに批判が来たのであれば、やはり編者というよりも、それを書いた自分に一番責任があるように思うからだ。
ちなみに、別に私の師匠をかばっているわけではないのは、上記したとおり。一応念のため。

最後に思うのは、せっかくここまでインタビューをしたのであれば、三笠宮に貞明皇后死後の話も聞いてもらいたいなあと思う。
三笠宮の戦後史における役割は、無視できないと私自身は思っているので。是非とも、続きを期待したい。

母宮貞明皇后とその時代―三笠宮両殿下が語る思い出

母宮貞明皇后とその時代―三笠宮両殿下が語る思い出

  • 作者: 工藤 美代子
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2007/07
  • メディア: 単行本


昭和天皇の妹君―謎につつまれた悲劇の皇女

昭和天皇の妹君―謎につつまれた悲劇の皇女

  • 作者: 河原 敏明
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: 文庫


岩波 天皇・皇室辞典

岩波 天皇・皇室辞典

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2005/03/11
  • メディア: 単行本


元号が先か、西暦が先か [天皇関係雑感]

最近、情報公開関係しか更新をしていなかったので、少し小ネタを。

学部の卒論を書いていたときに、戦前から現在までの新聞を色々と調べることが多かった。
その中で、ふと気づいたことがあった。
途中から、各面の欄外にある西暦と元号の記載の順番が入れ替わっているのだ。
初めはどの新聞も「元号(西暦)」だったのが、途中で「西暦(元号)」になるのだ。
例えば、昭和30年(1955年)という表記が、1980年(昭和55年)のように。
そこで、大手5紙が、いつこの記載を変えたのかということを調べてみると、おもしろい事実がわかった。
まずは、その結果から提示してみよう。

『朝日新聞』 1976年1月1日
『毎日新聞』 1978年1月1日
『読売新聞』 1988年1月1日
『日本経済新聞』 1988年9月23日
『産経新聞』 現在でも元号が先

『朝日』と『毎日』の動きが、当時の元号法制定運動の影響を受けていることは間違いないだろう。(最終的に1979年に元号法成立)
『朝日』には変えた理由が書かれていなかった(学部生の時の調べ方に問題があったかも)。
『毎日』は、前日の1977年12月31日朝刊に「ますます進む国際化に対応」するためであるという記載がある。
この理由が一番無難であるということなのだろう。

さて、『産経』については、色々な意味で「さすが」としか言えないので、解説はしない。
おもしろいのは、『読売』と『日経』の動きである。
1988年が昭和何年であるか気づくと、「あっ」と思われる方がいるだろう。
さらに、この年の9月下旬に何があったのか、記憶にある方がいればなおのことであろう。

1988年とは昭和63年。つまり、昭和天皇が死去する前年である。
そして、その年の9月19日に昭和天皇は倒れ、24日には一時重体となるのである。
この時に、「自粛」騒動(バラエティー番組が放送中止になるなど)が起きたことを覚えておられる方も多いのではないか。

昭和天皇は1987年にガンの手術を行っており、Xデー(天皇の死去)は時間の問題と思われていた。
その中で、『読売』は表記の変更を行った。
『日経』は昭和天皇重体のさなかである。(管見の限り理由は書いていない)
これから見ると、『読売』と『日経』が、元号の何を重視したのかがわかる。
つまり、「昭和」という元号の使いやすさである。

「昭和」は長かった。そして、「西暦下二桁-25=昭和」(例、1945年は45-25=20→昭和20年)という、数えやすい年号であった。
これが新しい元号になったときに、使いづらい・わかりづらいということが問題になったのではないだろうか。
実際に、平成になった当初、周りには「今年は昭和70年」といった数え方をしている人がいたように思う(2000年以後はあまり聞かなくなった)。

『読売』『日経』は基本的な政治姿勢は保守系に属する。
その2社が元号に対して取った政策は、「実利」だったということがここからは読めるのである。

ちなみに、「○○年度予算案」という記事があるが、これに関しては、欄外の表記とは異なり、平成に入ってからもしばらくはどの新聞にも生き残っている。
これはきちんと調べていないのだが、少なくとも『朝日』は、1989年にはまだ「平成元年度予算案」という言葉を使っていた。
現在では、『産経』を除く4社は「2007年度予算案」という言葉を使っている。
『産経』は今でも「平成19年度予算案」という言葉を使っており、ある意味一番潔いとは言えよう。(ちなみに、他の国の予算案の場合は2007年度という言葉を使っている。そこは「国際基準」を使用しているようだ。)

上記の記述は、私の「推測」にすぎないが、おおよそ当たっているのではと思っている。
おそらく社内の上層部で変えることを決めているのだろうけど、一体どういう議論があって変わったのかには興味がある。
しかし、そういう一次史料なんて出てくるんだろうか?探してみたことはないが。


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