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卜部亮吾侍従日記の読後感 [天皇関係雑感]

昭和天皇の晩年に侍従を務めた『卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞社、2007年、全五巻)が出揃ったので、頭から全部通読してみた。

卜部亮吾は、1924年(大正13年)生まれ。人事院の官僚であったが、総裁であった佐藤達夫(元法制局長官、日本国憲法制定に関わったことで有名)が、人事院から宮内庁に何名か侍従として人材を送り込んでおり、その中の一人として1970年(昭和45年)に侍従となった。
1981年には侍従職の事務主管となり、昭和天皇の死後の1991年まで侍従を務めた。2002年に死去。

この日記を一読して思うのは、宮内官僚の行動パターンというのが非常に色濃く出ているということである。
特に、「先例」への極端なまでのこだわりというのは、おそらく宮内庁独特のもののように思う。
何かあれば、明治大正の頃まで遡って先例を探し、そのときにどのような対応をしていたのかを元にして、政策が決まるというシーンが、これでもかというばかりに登場する。

また、この日記には、入江日記のような天皇の肉声はあまり出てこない。本当に官僚が自分の業務について淡々と書き続けたものである。その意味では、研究者以外が読んであまり面白いものとは思えない。
解説の御厨貴氏が書いているのだが、「この日記は、宮内庁というちょっと普通ではない役所に勤めているサラリーマンが、営々としてつけた日記という点に特徴がある」(第5巻、495頁)というまとめは、この日記の特徴をずばりと言い当てていると思う。

この日記をどう読むかという点については、『論座』2007年11月号に載っている、半藤一利氏・御厨貴氏・原武史氏の座談会「永世現役を願った昭和天皇の執念―『卜部日記』を読んで」が非常に良くまとまっているので、そちらを参考にしてほしい。

以下は、私が思ったことを備忘録的に書いておきたい。

まず、侍従とマスコミの関係が非常に細かく書いていることがある。
卜部は、事務主管になってから、昭和天皇の死去前後まで、マスコミ対策の中心を担っており、また記者達も卜部から情報を得るために、頻繁に卜部と接触していた。
そのため、流水会といった朝日新聞などのマスコミ関係者と会食する例会があったりするなど、宮内記者達との交流が多く見られる。

しかし、それでも、そのマスコミをコントロールできていたわけではなく、むしろ色々とスクープをたたき出されては、その対応に追われている様が浮かびあがってくる。
例えば、次の記述はそのもっとも典型的なものであろう。

「22日の〔新年用〕お写真と前日の理髪についてお願い 新聞に書かれないようにとの仰せ、(中略)記事回避の申し入れ総務課にしたところ日経夕刊にすでに出てるとのこと 凄く腹が立ち退庁帰宅、ビール夕食、報道担当を返上しようかと考える、フテ寝」(1987年(昭和62年)11月18日)

昭和天皇から書かれないように(皇后の体調の関係もあったため)頼まれたので、報道規制をしようと思ったらすでに報じられていて、腹が立ったということである。
このようなことは、何度も出てくる。
卜部日記だけでは状況は全てわかるわけではないが、きちんと分析してみると面白いのではないかと思っている。

次に、昭和天皇死後の御物整理の話が非常に興味深かった。
入江日記にも記載のある「聖談拝聴録」を徳川義寛元侍従長が持って帰っていて、死後に宮内庁に返還された話などもあったのだが、それよりも気になったのは、1993年(平成5年)に北白川祥子皇太后宮職女官長が、昭和天皇の大正末期の日記を発見して卜部に連絡したということから始まる記述である。

卜部は翌年2月7日、北白川女官長からこの日記を預かり、抄録を残すことになる。
そこには次のような記述がある。

「女官長から「御日記」あずかる 原本は処分の方向 遺したい部分 伺ったことにして書いたらと」(1994年(平成6年)2月7日)

そして、卜部はワープロを使って、この抄録を作り始める。しかし、その中で意図的に史料を変えている(わざと記述を拾っていない)ことがわかる。

「徳川〔侍従職〕参与を訪ねる 大正13年の「御日記」抄についての意見を伺う 宮中の女官に対する御批判が強すぎるので少し和らげるようにとのこと」(1994年(平成6年)12月13日)

そして1995年(平成7年)2月15日に、大正13年、14年分が完成(33枚と41枚)したことがわかる。
その後も「徳川〔侍従職〕参与から大正14年の「御日記」について御意見 皇族の御結婚と愛妻のことはいかがかと」(同年4月20日)と、内容を変えていることが伺える。

最後にこの日記は、皇太后(香淳皇后)が死去した際に、副葬品として一緒に埋葬されたようである(2000年(平成12年)7月22日)。

さて、なぜ原本を取っておかず、抄録(しかも相当に卜部や徳川義寛の意図的な取捨が行われている)を残すことにしたのかが、卜部日記だけではどうもよくわからない。
考えられるとした場合、そもそも日記は公開するものではなく、死者と一緒に焼いてしまうものであるという意識があるが、その一方で内容まで捨てるのは惜しいので、それだけは写しておこうということなんだろうか。
そう考えると、何で卜部は自分の日記を、死ぬ前に朝日の岩井克己氏に渡す気になったんだろうか。やはりよくわからない所だ。

また、情報公開と絡んで次のような記述が見える。

「角田〔書陵部長〕氏から昭和天皇のお手元資料はそれぞれ提出 官庁に原本があると考えられるので情報公開の対象とはならないことについて確認を求めてくる」(1998年(平成10年)10月30日)

この部分はよく文意がとれない。
情報公開法は1999年5月に成立する(施行は2001年4月)ので、これに絡んだことだとはわかる。
しかし「官庁に原本がある」と逆に情報公開の対象となるはずなのだが。これは卜部の書き間違いなのだろうか。
ただ、情報公開法の施行と「お手元資料」(天皇の私物と判断する)の指定のことが絡んでいることだけは確かなようである。

以上、ダラダラと書いてきたわけだが、この日記とクロスチェックできる他の資料が出てくるとありがたいかなと思う。特に、いままであまり気にされていないけど、新聞記者の日記とかが出てくるともっと面白いのではないだろうか。(この日記の監修をしている岩井氏は付けていないんだろうか?)

最後に、御厨氏が解説で書いていることに同感したので、その部分を引っ張って、今日の記事を終えたい。

「もっとも本日記は、生前の卜部が岩井克己記者に発表を託したものだ。とはいえ、一般論として、たとえ付けていたとしても引退後は焼却するのが望ましいとする慎重派は、けっこういるであろう。(中略)確かに宮中・皇室は秘してこそ存在価値のある特別の制度である。(中略)しかし同時に戦後の大衆天皇制の演出がもたらした効果により、常に宮中・皇室以外の世界と、何らかの形での接触と情報発信を必要不可欠とする宿命を負ってしまった。今やマスコミなしの宮中・皇室は考えられない。(中略)こうしたアンビバレントな状況にあって、21世紀の宮中と皇室の行く末を考慮した場合、当事者の焼却の意図の有無に関わらず、形として残されたものであれば、できる限り公開すべしと私は考える。それは不正確かつ不明瞭な宮中・皇室関連情報だけでは常に臆断がつきまとい、絶対に天皇と皇室の依って立つ基盤を盤石にはできないからである。特に昭和天皇の場合は「一身にして二生を生きる」と言ってもよいほど、帝国憲法の規定する天皇から現行憲法の規定する天皇へと、劇的な変貌をとげたのだから、真実の姿に可能な限り迫らなければなるまい。」(第5巻、490~491頁)


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