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宮内庁長官発言の裏にあるもの [天皇関係雑感]

2月13日、羽毛田信吾宮内庁長官が定例記者会見で、愛子内親王が天皇皇后に会いに来る回数が少ないことに苦言を評し、大きな反響を呼んでいる。
今週の週刊誌の見出しは、この問題一色で染まっていた。

宮内庁長官が、皇族を記者会見で批判するのはもちろん異例のことである。当然、内部で苦言を呈すればいい話であって、それをわざわざマスコミに公表し、皇太子批判をあおるというのは、普通では考えられない。
しかも、今回は、よく比較で出される2003年12月に、羽毛田長官の前任者である湯浅利夫長官が「秋篠宮様のお考えはあると思うが、皇室と秋篠宮一家の繁栄を考えると、三人目を強く希望したい」と記者会見で述べたこととは意味合いが違う。
湯浅氏のコメントは意図的にされたというよりも、むしろ流れで話してしまったという感じがあったが、今回は相当の覚悟を持ってしたという話なので、天皇の意思が働いたのではと、週刊誌各誌は推測していた。

さて、この問題は明日23日に公表されるはずの皇太子の記者会見でどのような反応が返ってくるかで、また問題が拡大する可能性があるが、今の時点で少し思うところを書いてみたい。
なお週刊誌の記述とダブるような話を書いてもしょうがないので、それとは違った切り口を提示してみる。

今回の報道のおおよその傾向としては、「千代田」対「赤坂」の対立という構図で描かれている。
「千代田」とはもちろん皇居=天皇皇后(宮内庁官房、侍従職)のことであり、「赤坂」は東宮御所=皇太子夫妻(東宮職)のことである。
しかも、その対立は「天皇」と「皇太子」という個人間の対立として描かれており、組織間対立の話は後景に退いているように見える。
しかし、私にはこの問題は個人間対立ではなく、組織の問題が大きいのではないかと考えている。

なお、ここからの話は仮説である。
職員に取材をすれば、私の見解は覆るかもしれないし、逆に補強されるかもしれない。

宮内庁という組織は、一般の企業だけでなく、他の省庁と比較しても、仕事内容の特殊性、組織のいびつさが際だっている所である。
それは大きく上げて次の3点にまとめられる。

①幹部(中堅幹部も含め)の多くは、他省庁からの出向組で固められ、内部からの幹部登用が少ない。そのため、職員の士気が高いとはいえない。
②仕事内容がルーティンワークしか存在しない。また、徹底した「先例主義」であるため、それに従うことが仕事の全てになりがちになる。さらに長期間勤めないと仕事内容についていけない。
③縄張り争いが激しい。特に東宮職と本庁の間。


まず①について。
宮内庁は、戦前の宮内省時代から他省庁出向組が幹部に登用されることの多い省庁であった。
1943年(昭和18年)の時の、宮内省幹部83名の職歴の調査によると、文政官僚36人(43.4%)、宮廷官僚26名(31.3%)、軍官僚12名(14.5%)、その他9人(10.8%)となっている。(デイビッド・タイタス『日本の天皇政治』サイマル出版会、1979年、97頁)
軍官僚のほとんどは侍従武官府(軍からの奏上の取り次ぎを行う機関)の人間だとおもわれるので、文政官僚の多さは際だっている。
しかも、この36名のうち、内務省出身者は15名(18.1%)を占め、最大勢力になっている。
戦前の天皇は、統治権総覧者であったので、政治的にも最重要の位置を占めており、内務官僚がその中心を握っていたことがこのことからも伺える。

戦後になっても、その傾向はあまり変わっていないとされる。
ただし、内務省は解体されているので、その代わりに外務官僚や警察官僚、自治官僚が入り込んでいるようだ。
これについては、詳しいデータは存在しない。タイタスのように証明した人は今のところいない。
しかし、例えば、儀式(例えば晩餐会)を統括する「式部官長」は、1957年以降すべて外務官僚が就任している。
他にも、ある課長のポストが、某省庁から必ず派遣されてくるといったような、各省の利権となっているポストもあるという話がある。

このような状態だと、まず宮内庁内部の職員の士気が上がるのかという問題が考えられる。
次に、出向組が宮内庁の仕事をどこまでこなすことができるのかという問題も挙げられる。
特に数年だけいて、また本省に戻っていく人であれば、まず無難に勤め上げて、帰る日を待つということになるのだろう。そこから、新たな発想が生まれるとは思えない。(②に関わる話でもある)

次に②について。
戦後の日本国憲法下では、天皇は基本的には「ハンコを押すだけの人」になった。
国事行為が明確に憲法に規定されたことにより、自らが政治的に動くということも禁じられた。
戦前では、内大臣や宮内大臣といった、天皇の側近やそれに関係する部下達は、調整に走り回るということもあったわけだが、現在はそのような仕事は一切存在しない。
現在では、宮内庁は定められたルーティンワークをひたすらこなすというのが、その大部分の仕事になってしまっている。

つまり、宮内庁という省庁は、「新しいことができない」ところである。
そのため、常に「先例」にどう従うかということだけを、徹底して追究することになる。

しかし、この「先例」がなかなかやっかいなものなのだ。
例えば、ある儀式をやろうとした場合、明治時代あたりからの日誌を引っ張り出して調べたりするような作業を強いられるのである。
これは、ある意味「職人芸」の世界であり、外部から出向して来て、いきなり対応できるものではない。
ある週刊誌によると、雅子妃と近いということで起用された東宮大夫(東宮職のトップ)である野村一成氏が、「もっと自分は何かできると思っていたが」と漏らしていたという話を書いていたが、外務官僚として40年も勤めた人でも、宮内庁という世界はとまどうことのほうが多いのだろう。

ただ、問題はこの「職人芸」が宮内庁の官僚達もできるのかということがある。
昭和天皇の時代は、侍従などの側近に、旧華族で天皇個人への忠誠心もあつい人が多く存在した。
代表的なのは入江相政であり徳川義寛だったわけである。
現天皇も、皇太子時代には、黒木従達や戸田康英、浜尾実といった旧華族家出身の側近が周りを固めていた。
だが、今の皇太子にそれに該当する人は存在しない。曽我剛東宮侍従長が2001年に亡くなってからは、「職人芸」を持ち、皇太子に絶対の忠誠を誓うような職員がいなくなっているのではないか。
だから、皇居や東宮御所での行動がマスコミにダダ漏れになるのを誰も制御できないのではないか。

つまり、「職人芸」を持たないのに、その「職人芸」を求められているのが現在の東宮職の現状なのではないか。(本庁の方は、職員数も多いし、その点はマシだと思われる。)
皇太子や雅子妃を必死になってかばおうと東宮職がしても、優秀な人材もいないような現状ではうまく回っていないというところなのではないか。

最後に③について。
もともと、東宮職というのは本庁から不満を言われやすいところでもある。
秋篠宮家の職員は、官房の宮務課に属しており、地位もそれほど高くないため、官房の意思が比較的貫徹しやすい立場にある。→宮内庁組織図
しかし、東宮職は官房や侍従職と並ぶ立場にある。
そしてさらに、場所も離れているので、本庁の意思が貫徹しにくい。

皇太子が皇居に住まないというのは、明治期以降ずっと続いてきた。
そのため、教育がうまくいっていないと天皇周辺から文句が出るというのは、大正天皇、昭和天皇、現天皇と、必ず起きている。
例えば、現在の天皇に関しても、入江相政日記には、東宮職に対して文句を書いている部分が散見される。

東宮職は皇居から離れているが故に、そこだけでまた一つの文化圏を作り上げる傾向がある。
そのため、「千代田」から批判を受けることも多く、それがさらなる反発を呼ぶことがある。
つまり、縄張り争いが激しいのも、ある意味「先例」なのである。
ただ、入江の時代には、東宮職と侍従職が定期的に会議をして、言いたいことを言い合っていたことも日記からは見て取れる。

現在の侍従職と東宮職、そして官房は議論がきちんと行える関係なのだろうか。
問題となった長官発言に対して、野村東宮大夫が憮然として記者会見をしていたということからわかるように、少なくともまともに議論ができるような関係は築けていないようである。

以上、3点を上げて、長官発言の裏にある状況を考えてみた。
天皇と皇太子の関係がこれほどうまくいっていないのは、周りにいる職員の問題が大きいはずである。
そして、その問題はおそらく構造的な問題であり、東宮職職員や長官を責めれば良いという問題ではないのではないだろうか。
しかし、では大改革ができるのかというと、それは皇室をどのように国家機関として位置づけていくのかということを考え直すということでもあるので、これは非常な困難を伴っている。
まずは、各関係機関の職員同士が、腹を割って話し合うというレベルから始めるしかないのではないだろうか。

小泉純一郎ではないが、「壊し屋」的な長官が必要な時代なのかもしれない。宮内庁の世界にはまってしまえば、現状維持が精一杯であろう。
それを無視して思い切ったことができる人がトップにならない限り、いつまでもこの問題は引きずっていくことになるのではないかと思う。


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