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「事業仕分け」による若手研究育成資金削減問題 [雑感]

最近話題の行政刷新会議のいわゆる「事業仕分け」。
その場で、11月13日に私にとっても深刻な予算が「予算要求の削減」という判断が下されました。
それは「競争的資金(若手研究育成)」です。
結果によれば、

結果:予算要求の縮減
・予算計上見送り 1名
・予算要求の縮減 10名
 a 半額 3名
 b 1/3縮減 3名
 c その他 4名(議事録を見ると1-2割程度縮減と書いた人達→なぜに「その他」!)
・予算要求通り 2名

とのこと。参考資料は↓

「第3WG評価コメント 事業番号3-21 競争的資金(若手研究育成)」
http://www.cao.go.jp/sasshin/oshirase/h-kekka/pdf/nov13kekka/3-21.pdf
「配布資料」(11の10ページ目と12のすべて、13の1ページ目)
http://www.cao.go.jp/sasshin/oshirase/pdf/nov13-pm-shiryo/11.pdf
http://www.cao.go.jp/sasshin/oshirase/pdf/nov13-pm-shiryo/12.pdf
http://www.cao.go.jp/sasshin/oshirase/pdf/nov13-pm-shiryo/13.pdf

スパコンなどの削減の話題は新聞で目にしていたのですが、恥ずかしながら若手向けの予算が削減されていたことに数日前まで気づいていませんでした。友人からのメールで始めて気づいた次第。
理系とは異なり、文系は(というか私のいる歴史学などは特に)個別に研究していることが多いせいか、話題を耳にすることがありませんでした。やはりtwitterとか導入したほうがよいのかもしれません。

慌てて、ブログサーチで11月13日の記事まで遡って調べてみました。
また、議事録をアップしているサイトもあったので、それも見てみました。

「若手研究育成テキスト」
http://mercury.dbcls.jp/w/index.php?%BC%E3%BC%EA%B8%A6%B5%E6%B0%E9%C0%AE%A5%C6%A5%AD%A5%B9%A5%C8

そこでは、「減らされる!」ということは言及されていましたが、意外に「何が削減対象になったのか」ということをきちんと分析されていないものがほとんどでした。
そのあたりをきちんと説明しないと、たぶん一般の方から見ると「既得権を振り回しているだけ」みたいな解釈をされかねないのかなと思います。

私のブログは、「公文書管理」とか「眞子さま萌え」とかいった記事を書くからか、かなりアカデミックな世界以外からの読者も多いように思います。
よって、遅れてきた者としては、他の方との差別化も兼ねて、一体何が減らされようとしているのかという点をきちんと解説してみたいと思います。一般の方に読みやすいかはわかりませぬが・・・。
(なお、他にも科学関係予算は事業仕分けの対象になっていますが、若手研究の話に絞ります。)

******************(以下説明)**********************

まず、今回削減対象に上がっているのは以下の3つの事業。
1.科学技術振興調整費(若手研究者養成システム改革)
2.科学研究費補助金(若手研究(S)(A)(B)、特別研究員奨励費)
3.特別研究員事業

順番に説明します。

1.科学技術振興調整費(若手研究者養成システム改革)

文部科学省「科学技術振興調整費」
http://www.mext.go.jp/a_menu/kagaku/chousei/index.htm
独立行政法人科学技術振興機構「科学技術振興調整費」
http://www.jst.go.jp/shincho/
↑これがその説明のあるサイト。ぶっちゃけ、わかりにくくて、外部に説明する気があるように見えない・・・

まず「科学技術振興調整費」とは何かについて。
これは、内閣府によれば「総合科学技術会議が我が国全体の科学技術に関する施策を見渡した上で、機動的かつ戦略的に活用する資金」として設置されたものである。
まあ要するに、国の科学技術予算の中核を担っているものだと考えてよいと思う。
http://www8.cao.go.jp/cstp/webpage.html

そのなかで、「若手研究者養成システム改革」事業は、平成18年度(2006年度)から行われている。
この事業は二つの事業から成り立っている。
一つ目は、「若手研究者の自立的環境整備促進」事業。
二つ目は、「イノベーション創出若手研究人材養成」事業、である。
両方とも、毎年10件前後の大学が採用、5年間継続事業となっている。(後者は平成20年度から)

詳しくは下記のパンフを参照してほしいのだが、簡単に。
前者は「テニュア・トラック」制度という。
これは、各大学が博士号取得者を「特任准教授」か「特任講師」のような形で任期付で雇用し(国際公募を行わなければならない)、その間に自立した研究を行わせて育成し、どこかのテニュア(常勤教員)に就職させようというものである。
後者は「長期インターンシップ」制度のことである。
各大学が博士号取得者やもうすぐ取りそうな博士課程の学生を、数ヶ月という単位で企業などにインターンシップに行かせる制度である。
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/science/detail/__icsFiles/afieldfile/2009/08/03/1282747_003.pdf

両者とも基本的には博士号取得者の就職支援という形を取っている。

ちなみにこの両者はおおむね理系向け事業。
平成20年度の採択事業の発表資料を見たのだが、前者は9事業のうち7事業が理系のみ(岡山大と琉球大のものは一応文理総合の大学院が関係している)、後者は10事業のうち理系のみとわかるのが5、文系が確実にあるのが1(大阪府大に経済学)、他は不明といったところ。

なお、「事業仕分け」の結果では、前者のほうは存続との結論が出ている。

2.科学研究費補助金(若手研究(S)(A)(B)、特別研究員奨励費)

日本学術振興会「科学研究費補助金 公募要領・・・」
http://www.jsps.go.jp/j-grantsinaid/03_keikaku/download.html
公募要領がPDFである。

まず若手研究S、A、Bについて。
公募要領をみても長くてわかりにくいと思うので細かく説明を。

これらはざっと書くと次のようなものである。(詳しくは上記の公募要領に載っている。採用数は71ページ以降。)

・募集資格 
支給時39才以下(Sは42才以下)で研究機関に研究者として勤務(非常勤でもOK)

・もらえる金額
Sは年3000万~1億。5年間。約30件。ただし、今年は中止。
Aは年500~3000万。2~4年間。昨年は350件、採用率18.7%。
Bは年500万以下。2~4年間。昨年は6487件、採用率は27.8%。

計画書を書いて提出し、審査が行われる。この研究費は、主に非常勤クラスの若手研究者に重宝されている。(昔は常勤しか応募できなかった気が。)
多いと思うかもしれないが、理系ならたぶん微々たる物。文系でも調査に行ったり、行った先で大量にコピーしたり貴重書を買い集めたりするような分野だと、あっというまにお金がふっとんでいく。
ちなみに生活費には使えない

「特別研究員奨励費」については、3との関係のほうが説明しやすいのでそちらで。

3.特別研究員事業

日本学術振興会「特別研究員」
http://www.jsps.go.jp/j-pd/index.html

特別研究員は主に次の4つに分かれる。

DC1 博士課程1年から2年間。月20万。奨励費150万まで。平成21年度からの支給者779名(採用率29.3%)
DC2 博士課程2or3年から2年間。月20万。奨励費150万まで。平成21年度からの支給者1227名(採用率29.0%)
PD 基本的には博士号取得者対象。3年間。月36万4千。奨励費150万まで。平成21年度からの支給者322名(採用率9.2%)
RPD 出産・育児のため3ヶ月以上研究を中断した人対象。2年間。月36万4千。奨励費150万まで。平成20年度からの支給者38名(採用率19.0%)。男性でも取れる。
http://www.jsps.go.jp/j-pd/pd_oubo.htm
http://www.jsps.go.jp/j-pd/pd_saiyo.htm

なお、基本的には34才以下対象。RPDは年齢制限なし。
ちなみに採用率はここ数年でDC1,2は劇的に向上(平成15年度は両方とも12-13%)、代わりにPDは漸減して(平成15年度は約16%)いる。人数で考えてもDC1,2は倍増、PDは半減。
DCは院生時代にもらえるわけだから、これを見ても、特別研究員がポスドク(博士号取得者)の生活費うんぬんの議論はおかしい。
・・・改めて調べてみて、PDの採用人数が705人→322人に泣いた・・・

このお金は生活資金として使う。
特別研究員になると、大学の非常勤講師などを除けばアルバイトが禁止される。つまり、このお金は「研究に専念できるように」給付されるものである。
なお、奨励費は、研究のための特別な費用を出してくれる制度。海外調査などに使われる。これが2でとりあげられていた「特別研究員奨励費」のこと。この分はもちろん生活費には使えない。

ちなみに、3を取っている人は2には応募できない。つまり財務省が言うような重複は2と3の間にはない(もし奨励費と特別研究員のことを言っているのならば、奨励費を2に入れたこと自体が作為的)。

************************(説明終)****************************

さて、以上が今回「事業仕分け」で取り上げられた資金です。
ちなみに文科省の要求額は

1・・・125億
2・・・330億9千万
3・・・170億


です。

これを多いと思うかは人それぞれだと思います。生活保護をもらうような厳しい生活を強いられているかたからは「なんと恵まれた」と思うかもしれません。
ただ、こういった資金を取れる人は、本当に「優秀な」人たちです。ぶっちゃけ私は取れてません(泣)
そういった人たちに自由にお金を使わせて研究をさせることは、きっと日本国民にとって長期的にみて利益につながると私は思います。

「事業仕分け」の議論を見ていると、財務省や仕分け人の論理は「費用対効果」の議論が主になっています。
また、文科省の反論も、ほとんど1の事業の関係に引きずられ、「若手に金を与えて自由に研究をさせるということ」の本質を全く忘れた議論をしているように思えてなりません。
だいたい、就職支援が主の1と、研究支援が主の2,3を一緒に議論すること自体がおかしいでしょう。次元が違う話をしているのに。

私が思うに、若手研究者にお金を与えるということは、「君の研究は面白い!失敗してもいいからやってみなさい。お金なら安心せい!」というものではないのでしょうか。
つまり、短期的な利益などどうでもよくて、正直「捨て金」になったってしょうがないと思って出すものではないでしょうか。

なお、この事業仕分けについては、文科省が意見を公募しています。
http://www.mext.go.jp/a_menu/kaikei/sassin/1286925.htm
12月15日までとは書いてありますが、予算案策定まではもう日がないでしょう。意見のある方は早めに出したほうが良いと思います。

ただ、はっきり言って、この事業仕分けの若手研究育成における文科省の答弁は「ひどい」を通り越して「呆れる」レベルだったので、そもそも論として、もうちょっときちんと論理補強をしなおした上で財務省と戦ってほしいと願っています。

相変わらず長々と書きました。ご参考になれば幸いです。


参考:私がブログサーチで遡っていって、最も参考になった記事。リンクを貼らせていただきます。

「事業仕分けWS3 まとめウィキ」→第3ワーキンググループ関係の情報が集積。すごい情報量。
http://mercury.dbcls.jp/w/index.php?FrontPage

Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録「いわゆる「事業仕分け」について(科学技術人材育成関係を中心に)」
http://d.hatena.ne.jp/kenjiito/20091114/p1

U-runner's View「行政刷新会議「事業仕分け」に対するアカデミック研究者の反応」
http://yaplog.jp/ultgear_lasrun/archive/390

日々是科学「行政刷新会議に物申す」
http://ameblo.jp/ramen-science/entry-10387906175.html

大「脳」洋航海記「「事業仕分け」中間報告:若手支援は切り捨ての方向に向かい、最悪のシナリオが一歩現実味を帯びた(追記あり)」
http://www.mumumu.org/~viking/blog-wp/?p=3462

追記(12/7)
京都大学文化人類学若手研究者有志が、人文社会科学系の院生の署名を集めています。(12/10まで)
http://www.anth.jinkan.kyoto-u.ac.jp/shomeisho.htm
院生以外の署名も受け付けているとのことです。
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総閲覧数20万突破! [雑感]

昨日、総閲覧数が20万を突破しました。
10万突破の記事を書いたのが昨年の12月20日ですので、約7ヶ月でさらに10万を積み重ねたことになります。
10万まで行くのに開設から2年半かかったにも関わらず、その後はあっという間にアクセスが増えました。

検索キーワードを見てみても、それ以前は「眞子様萌え」などがほとんどだったのに対して、この半年は明らかに「公文書管理法」でたどり着く人の方が上回るようになりました。
少しでもこの問題の関心を深めることに寄与できていれば幸いです。

読まれた方からの反応も色々と自分の元に返ってくることも多くなってきました。非常に励みになっております。
今後とも、このブログをよろしくお願いいたします。
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アリゾナ記念館と戦艦ミズーリ [雑感]

妹の結婚式でハワイへ行ってきた。
ハワイに行ったからには、歴史研究者としてはあそこに行かねばなるまいと思って真珠湾に行ってきた。
説明するまでもないことだが、真珠湾は1941年12月8日(現地は7日)に日本軍がハワイのアメリカ海軍に奇襲攻撃をかけた舞台である。

真珠湾には日本との関係のある施設が主に2つある。
一つめは、戦艦アリゾナ記念館(USS Arizona Memorial)
二つめは、戦艦ミズーリ(USS Missouri)である。

前者は、日本軍の真珠湾攻撃にて沈められた戦艦。この写真は結構有名なのではないか。
USSArizona_PearlHarbor.jpg
現在、沈んだ船の上に記念館が建てられていて、沈んでいる船を見ることができる。

後者は、日本が連合国に降伏した時の調印式が行われた場所。
Shigemitsu-signs-surrender.jpg
トルーマン大統領がミズーリ州の出身だったことから、この艦上が降伏調印式の場所として選ばれた。1992年に退役して、その後アリゾナ記念館の近くに係留されて公開されている。

真珠湾は、オアフ島の主要部であるワイキキから市バスに乗って1時間弱西に行ったところにある。
アリゾナ記念館は無料で入ることができる。
ただ、必ず15分ごとに放映されている映画を見なければならない。そのチケットがビジターセンターの受付で配られている。
地球の歩き方に混むこともあると書いてあったので、朝8時過ぎに現地に到着するように行った。すると8:45の回で入れた。

映画自体は、私の英語ヒアリング能力が微妙なせいでナレーションはあまり理解できなかった。
しかし、映像を見ている感じでは、満州事変→日中戦争→南部仏印進駐と石油禁輸→日米交渉決裂→真珠湾攻撃という流れで説明がされていて、別に日本人である私が見ていてもそれほど違和感を感じなかった。

映画を見終わったら、船に乗って、真珠湾に浮かぶアリゾナ記念館に出発する。
arizona-mem.jpg
↑左がアリゾナ記念館。右は何かはよくわからないが、他にも船の名前が書いたものがいくつか浮いているので、沈んだ船の場所がわかるように作ってあるようだ(上で追悼式をやるため?)。

アリゾナ記念館は、沈んだ戦艦の真ん中あたりを横断するように建てられている。
一番目立つのは砲塔の台座。
syuhou.jpg
このように、いくつか高い部分が海の上に出ている。

こちらは真ん中の右舷あたり。(クリックで拡大写真)
/arizona-mem02.jpg
このように、海の中に沈んでいるのがよくわかる。海の色が濁っているのは、油がまだ染みだしているから。
石油特有の臭いがかなりするぐらい流出している。

建物の奥には、アリゾナで戦死した1177名の名前を刻んだ壁があった。ここが追悼の場であるということを改めて感じさせるものであった。

ざっと見てみると、やはり日本人は少ないという印象。ワイキキだとそこら中に日本人がいるのだが。いる場合でもほとんどが家族連れだった。


さて、そのアリゾナ記念館のビジターセンターに戻り、そこの前からバスに乗って戦艦ミズーリへ向かった。
ミズーリは海軍基地の内部にあるので、自由に立ち入ることができない。そのため、専用のシャトルバスに必ず乗らされる。

戦艦ミズーリは、ガイドツアーを選ぶと内部のコントロールルームなどにも連れて行ってもらえるらしいが、英語しかなかったので辛いなと思って、ガイド無しで行けるところだけをまわることにした。

ミズーリは10数年前まで現役であった戦艦であるので、やはり迫力がある。
missouri01.jpg

ミズーリで日本人として押さえておきたいところは2箇所あった。
一つは、神風特攻隊が突っ込んだ跡。
739px-Kamikaze_zero.jpg
結構この写真も有名なもの。突っ込んだ日本兵の遺体はミズーリで丁重に水葬されている。
この写真や水葬されたときの写真などが置かれている。

突っ込んだところには説明文が付いている。この後ろ側が若干へっこんでる(写真からはわからないかも。クリックすると拡大写真)。
/kamikaze.jpg

もう一つはもちろん降伏調印式をした場所。
甲板から少し階段を上ったデッキがその場所にあたる。
狭さがわかるようなアングルの写真を撮っておけば良かったのだが、とにかく狭い!

確かによくよく考えてみると、船の上でやっているんだからそんなに広いわけない。
そう思って、調印式の写真↓を見てみると、かなり狭いところでやっていたのだなと改めて感じる。
missouri02.jpg

調印式の机があった場所には、プレートがはめ込まれている。
missouri03.jpg
あとは、調印文書のコピーが飾ってあった。

改めてミズーリを見てみると、そもそも調印式をやるような広い場所では無いということがわかる。
それをあえてここでやったということは、その視覚的な効果とかがものすごく計算されているんだなと強く感じた。

さて、この二つ、色々と興味深い施設ではあったのだが、実はこの中で一番感銘を受けたのは、もっと地味な部分だった。

それは、アリゾナ記念館のビジターセンターの展示スペースにあった文章だ。
そこでは、ちょっとしたテレビ画面が置かれていて、真珠湾攻撃への経緯について映像が流されていた。
その説明文がなかなかうならせてくれるのだ。

以下引用文。
PEARL HARBOR
ROAD TO INFAMY
 This 11 minute film depicts in detail the events leading up to the tragic outbreak of the Pacific War. For Japan in 1941, the lethal mixture of politics, religion, national pride and militarism were the ingredients that determined her decision to attack Pearl Harbor.
 War is not a simple term to explain or even understand. This film gives the viewer the backround of how America was plunged into World War II and why Japan chose the road to war.

(訳)
真珠湾
屈辱への道
 この11分の映像は、太平洋戦争の悲劇的な発端を導く出来事について詳細に描写します。1941年の日本において、政治、宗教、国家のプライド、そして軍国主義が致命的なまでに混ざり合った結果、真珠湾を攻撃するという決定が下されたのでした。
 戦争は、簡単な一つの言葉では説明できないし理解さえもできない。 このフィルムはアメリカがどのように第二次世界大戦に突入したか、そして、日本がなぜ戦争への道を選んだかに関する背景を視聴者に与えます。

↓クリックで拡大
/pearl.jpg

Road to Infamyという言葉で「おっ」となるけど、これはルーズベルト大統領の真珠湾攻撃直後の有名な演説の一説の"Day of infamy"(屈辱の日)をもじったものだと思われる。
重要なのは、「戦争は起きた理由は簡単に説明できない」と明言している点。つまり、背景説明はするけど、それだけでは全てを語りきっているわけではないときちんと書いているところだ。
展示というのは、ある一定の歴史観を観衆に強いる側面があるわけだけど、ここではこの説明だけでは十分でないことをはっきりと書いているのだ。

歴史教育というのはこうあるべきだよなあと改めて感じる。
どうしても、歴史を知ろうとする人は「わかりやすい」方向に流される傾向にある。説明を聞いてそれを鵜呑みにすることも多い。
特に、アリゾナ記念館のようなアメリカの愛国心を煽るような施設は、アリゾナの沈んでいる姿を見せて「わかりやすく」日本軍の悪行を理解させたいと思うはずである。
でも、そんな簡単にわかるもんではないと、その展示をしている施設が言い切っているのだ。これはなかなかすごいなと感じざるをえなかった。

やはりこういった施設は行ってみないとわからないことが多い。
行くと日本人は不愉快になるとか言う人もいるようだが、是非とも行ってみてほしいと思う。
そんなに単純な理解では真珠湾攻撃は語れないと、考えざるをえなくなるのではないか。

注記 昔のモノクロ写真などはWikipediaなどから借用した。
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祖父の死 [雑感]

私的なことはあまり書かないことにしているが書き残しておきたくなった。

昨日、父方の祖父が死去したという連絡が実家から入った。88才。数年前からほとんど寝たきりになっていたので、大往生だったと思う。

祖父は北関東のある町で個人経営の眼鏡屋をしていた。戦前に中学校まで出たのだが、八人兄弟の長男なので実家を継ぐことになり、その先の進学を断念し、以来長い間ひたすらに職人として働き続けてきた。

(追記 あとから聞いてみたところ、高等小学校卒だったけど、どうしても勉強したかったから、図書館とかで独学で勉強して「専門学校入学者検定」(中学卒業と同等と認定される試験)を通ったということだったらしい。
でもこの「専検」も簡単には受からなかったらしいから、丁稚奉公しながら取得するのはものすごい努力が必要だっただろう。)

私は博士課程に上がった頃だったと思うが、自分の研究している天皇制について、祖父母が同時代的に何を考えていたのかを聞きたいと思って話を聞きに行ったことがある。だが、これについては何を話したか正直言ってあまり内容を覚えていない。
むしろ覚えているのは、祖父がどのような人生を歩んできたのかという話だった。
それからまもなくして祖父は倒れてしまい、あまり自由には話せなくなってしまった。まさに最後のタイミングだったと思う。録音しておけば良かったと後悔している。

祖父の実家は、元々宝石の飾り職人をしている店だった。なぜそれを始めたのかまでは聞いていない。
祖父は実家を継ぐことになった時に、丁稚奉公として銀座の服部時計店に修行に出されたらしい。(正確には、最初は叔父が働いていた浅草の飾り職人の家で修行したらしい。その後に服部に行ったということか?)
しかし、修行しているうちに日中戦争が始まり、次第に「贅沢禁止」という流れができあがっていた。
祖父はしばらくは飾り職人の修行をしていたらしいが、それでは食えなくなると思い、眼鏡を作る技術を学んだ。そして、飾り職人兼眼鏡屋となった。

その後、祖父は戦争に召集された。いつされたのかは具体的には聞いていない。
ただ、外地にはいかなかったらしい。「教官」をしていたというから、可能性としては「工兵」だったのかなと思う。
具体的に軍隊の話はあまり聞かなかったが、ただ興味深い話を一つだけしていた。
それは、終戦の年の1945年の春に、召集解除になって帰ってきたという話だ。

当時祖父は土浦あたりの基地にいたらしい(土浦か霞ヶ浦の航空隊か?)。そして、召集の期限がたまたま1945年の春に来たらしい。
普通はそのまま延長になるものなのだが、そこの隊長が「君は長男だろう。だから帰りなさい。」といって解除してくれたというのだ。
ひょっとするともう負けるということを知っていたのかもしれんなあという話をしていたのを思い出す。

その後帰ってきてから、祖父はがむしゃらに働き続けた。二人の子供を育て、孫が五人いる。
私の幼い頃の記憶に残っている祖父は、ずっと研磨機の前に座って黙々と眼鏡を直したりしている後ろ姿だ。
田舎の小さな町の職人であったが、商売上手の祖母に支えられ、地に足をつけた人生をずっと送ってきた。
その長い人生の間にはもちろん苦労もたくさんあっただろう。そのあたりは全く話を聞かなかった。あまり弱音を吐くような人でもなかった。

祖父は特に何か歴史に名が残るようなことをした人ではなかった。でも尊敬に値する人だった。
歴史研究者はどうしても、歴史的に何か重要なことをやった人を取り上げる傾向がある。もちろんそれは天皇研究をしている私も例外ではない。

祖父が私の研究について何かを話していた記憶はない。ただ頑張れと言われていただけだ。
このような研究をしている私を祖父はどう感じていたのだろう。もっと地に足をつけて生活しろと思っていただろうか。
今となってはわからない。
ただ、私の理詰めで物を考える性格は、間違いなく父方の血を引いたのかなと思っている。

今年の正月に祖父に会ったとき、祖父は妹が結婚するという話を聞いて泣いた。
人前で泣くような人では全くなかったから、そろそろ危ないのかもしれないとは思っていた。

こういう文章をブログという媒体で書くこと自体、祖父は笑うかもしれないと思う。
ただ、孫の一人として、何かを書いておきたかった。
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日本鉄道旅行地図帳第10号 [雑感]


日本鉄道旅行地図帳10大阪

日本鉄道旅行地図帳10大阪

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2009/02/18
  • メディア: 単行本



『日本鉄道旅行地図帳』というシリーズ本が現在非常に好調に売れているのをご存じでしょうか。シリーズ累計100万部を突破したらしいです。
その第10号に、明治学院大の原武史さんが昭和天皇の巡幸と鉄道の話を書かれています。

鉄道マニアの原さんならではの記事なのですが、この戦後巡幸(1946-1954年)の部分のデータは私が提供しています(最後に謝辞を入れてもらっています)。
以前、原さんから昭和天皇が戦後巡幸の時に乗った列車のデータが載っている本はあるかと聞かれたときに、時刻表検定1級認定3回の鉄道魂(笑)から、自作して渡したものです。
おそらく今までこのようなデータはどこにも掲載されていないと思います(調べた人もいないということだと思うが)。

私が調べたデータは地方新聞の当時の記事を元にしているので、国立公文書館に入っている巡幸日程表などではわからないような当日になってからの変更箇所なども全部拾えているはずです。
ただ、色々な手違いなどがあって、微妙に本に載っているデータが間違っています。
なので、私のデータの最終版をとりあえずアップしておきます。鉄道好きの方は、どこが間違っているのかを探してみるのも面白いかもしれません。

本来なら、PDFファイルにして、自分のHPの方に置くべきなのですが、サイトを管理しているパソコンが壊れてしまっている+私の持っているホームページビルダーがvistaに対応していないということから、更新ができなくなっていますので、とりあえずjpeg変換して下に置いておきます。

もしデータを引用する場合は、必ず私の名前とサイト名を明記してください。
これで少しは鉄道オタクの世界に貢献できただろうか・・・。

追記 3/10
やっとホームページビルダーを使わずに上げる方法がわかりました。
PDFファイルでホームページのトップに置いておきます。
これに合わせてjpegの方は削除します。
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総閲覧数10万突破! [雑感]

一昨日に、ついにこのブログの総閲覧数が10万を突破しました。
「読まれている記事ランキング」を作った8月10日で6万7千だったので、そこから4ヶ月で3万以上のアクセスを記録したことになります。
相変わらず「眞子様」「承子様」ネタで来られる方も多いですが、最近は公文書関係でググってくる方がかなり多くなってきました。

始めた当初は10万というのは途方もない数だと思いましたが、多くの読者のみなさまに恵まれたことでここまで続けて来られました。
あちこちで「読んでるよ」という方とお会いすることがあって、自分としてもとても励みになっています。

特に10万アクセス用の特別記事を用意していませんので御礼まで。
年内にもう一つ何かを書いて今年を締めたいと思っています。しかし、12月23日の天皇の記者会見はキャンセルらしいし(文書で何か発表はするだろうが)、何を書くかなあ・・・。
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占領戦後史研究会 [雑感]

占領戦後史研究会の恒例の年末シンポジウムが土曜日に開かれます。
数日前に、突如として「若手研究者からの意見を」ということで、コメンテーターを引き受けてくれないかという依頼が来て、引き受けました。たぶんこのギリギリのタイミングで、しかも私に依頼が来るということは、差し迫った事情があったんだろうとも思いましたので。
せっかくなので、前から聞きたかったことでも聞いてみようかと思っています。
興味のある方はご参加下さい。

2008年度占領戦後史研究会シンポジウム

2008年12月13日(土)14時~18時
二松学舎大学九段キャンパス 高層棟4階401号室

「昭和天皇再論―戦前と戦後」

報告者
 豊下楢彦氏(関西学院大学) 「昭和天皇・マッカーサー会見から」
 高橋紘氏(静岡福祉大学) 「昭和天皇の性格を推論する」

コメンテーター
 雨宮昭一氏(獨協大学)
 瀬畑源(一橋大学院生)

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ハマの番長、流出の危機 [雑感]

私的なことは書かないと言っておきながら、やはりこれだけは書いておきたい。
それは、昨日の三浦大輔のFA宣言についてである。

私は大洋時代以来の横浜ベイスターズファンである。1998年の優勝の時は本当に嬉しかった。今でも優勝翌日の横浜球場の雰囲気を手に取るように思い出すことができる(前日に私設応援団が球団とトラブって、前半のうちは応援の指揮を執らなかったにもかかわらず、球場全体から自然と応援歌が歌われていた情景は感動物だった)。
しかし、ここ数年は時折上位に行ったりするが、まあ散々な成績である。
1998年に優勝したときに、ベイファンを公言する漫画家のやくみつるが、当時の主力がほとんど同じ年齢であることから、彼等の力が落ちたときにまた昔の大洋時代の弱さに戻るのではということを書いていたが、その予言が完全に当たってしまった。

たしかに、ベイスターズは優勝メンバーを切らなくてはいけない時期になっていたと思う。琢郎も尚典もクビになったのは仕方が無かったと思う。
でも、今年の球団の方針の迷走っぷりには我慢ならない。
そもそも、今年キャッチャーの相川がFA権を取ることが決まっていたにも関わらず、二番手捕手の鶴岡を巨人にトレードに出したこと、外野手は余っているからといって多村や小池をトレードに出したのに、今年のドラ一は外野手を取るは広島から森笠を取ってくるわ、本当に頭を使っているのかと疑うことしきりである。投手陣をどう補強するかが課題だったんではないのか。

そして、ついに三浦までもが流出の危機を迎えている。
三浦は「ハマの番長」として人気も随一、崩壊した投手陣を支えるだけの実績と実力を持った唯一の選手である。
ここ数年、彼がずっと投手陣を支えてきた。唯一の完投能力のある投手だった。
その三浦すら、ベイスターズを捨てようとしている。

三浦の気持ちはわからなくはない。
おそらくベイスターズはあと5年は優勝争いすら不可能なぐらい投手陣がズタボロな状態。
そして三浦はあの1998年に日本シリーズで勝っていない(第3戦先発、3回KO。しかもローテ的には第6戦先発もあったにもかかわらず川村が起用されて、その試合で日本一が決まっている。もちろん肝機能障害などもあって間隔を空けなければならなかったということもあるのだが・・・)。
たぶん、三浦は日本シリーズを自分の力で勝ちたいというのがあるんだろう。
それに、幼少時よりの阪神ファン。いくらベイスターズ愛のある三浦でも、阪神に行きたくもなるだろう。

でも何とか踏みとどまってほしいのだ、ファンとしては。
そのためにも、球団はもっと金を出してでも三浦の流出は食い止めるべきだ。なんだか、球団のコメントを見るとあきらめているような気がしてならんのだ。
このままでは、数年後に村田なども出て行ってしまう。三浦がいなくなったら、チームは空中分解してしまわないだろうか。三浦の流出はエースがいなくなるというだけの問題ではない。チームの精神的な支柱を失うことになるのだ。

弱くても応援は続けるけど、もうちょっと何とかならんのか。
来年、エースと正捕手両方を失って戦うことになったら、また最下位独走確定じゃないか・・・

以上、どうしてもどこかにぶちまけたかったので書いてしまった・・・。
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一橋大学経済研究所附属社会科学統計情報研究センター [雑感]

昨日まで、一橋大学経済研究所附属社会科学統計情報研究センターで蔵書整理のアルバイトをしていた。
このセンターは、経済学の人には知られていると思われるが、その他の分野の人には「知る人ぞ知る」図書館になっている。
一橋の教員以外は書庫に入れないので、この機に色々と中を見学してきた。

その中で2点ほど気になった資料があったので紹介しておきます。

1.東京市政調査会からの移管資料

今でも市政調査会は存在しているが、経緯は知らないが「捨てるから」と言われて引き受けた史料群がある。
それは、大正末期から昭和30年代半ばにかけての、全国の各市の「歳入歳出決算書」である。
残念ながら、市レベルのものがほとんどだったのだが、これだけ系統だって残っているのは珍しいのではないか。
このころの資料は、捨てられてしまったり、空襲で焼けたりして残っていない物も結構あるので。(沖縄県関係の戦前の統計もある。)


2.1960年農業センサスの調査票

正確に書くと1960年に行われた「世界農林業センサス」の農業部門の調査票。
全てをチェックしてないからわからないけど、書架3列分上から下までものすごい量があったので、おそらく全国の原データが全て保管されているのではないか。
しかし、一体どうしてこんなものが。捨てるときにもらってきたんだろうか。普通原データは捨ててしまうものだが。

これは、使い方によっては、ものすごい資料だと思う。
地方史の人にとっては、各世帯の原データがわかるわけだから、センサスに載っているような統計手法とは別のやり方を取ることもできるはず。
しかし、個人情報の固まりのような資料だから、おそらく使用不可になっている可能性が高い。OPACにもないし、おそらく、存在すら知られていないと思われる。
ただ、現在統計研は、「学術研究のための政府統計ミクロデータの試行的提供」というプロジェクトをやっていて、総務省統計局から個人情報の部分を消したミクロデータの提供を受けて、それを研究者に提供することをしている。

もちろん、これは電子データ化しているから、個人情報の部分を隠すことが楽だからできるということなのだろう。
でも、そういったミクロデータの提供を行っている機関なのだから、農業センサスの調査票の公開も、何らかの形でできる可能性はあるのではないだろうか。
興味がある人は問い合わせてみたらどうだろうか。簡単には開かない資料だろうが、誰もトライしなければ、おそらく寝たままの資料になると思う。


他にも、旧大日本帝国時代の植民地(朝鮮、台湾、満州など)の様々な統計が、そこらの棚にわさわさと置いてあって、これはなかなかすごいなあと思うことが多かった。
センターの人は「利用者が少ない」と歎いていたが、なかなか貴重な物を一杯持っているなあという感じだった。
一橋の経済研究所のOPACで蔵書はほとんど検索できます(遡及率も9割と言っていたので、あるものはほとんどOPACに出てきます)。
気になる方は、一度調査をしてみたらいかがか?
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映画『ラストゲーム―最後の早慶戦』を見る [雑感]

現在公開中の映画『ラストゲーム―最後の早慶戦』を見てきた。
「最後の早慶戦」とは、1943年(昭和18年)10月に行われた「出陣学徒壮行早慶戦」のことである。野球が米国のスポーツとして敵視された中で、学徒出陣前の学生の最後の思い出にと行われたものである。
この早慶戦の開催に力を注いだのが、慶応の小泉信三塾長と早稲田の野球部顧問飛田穂州だとされており(実はそうではないかもという話は後述)、この映画は飛田と早稲田の学生に焦点をあてて描いたものである。
私は小泉信三について論文を書いたこともあるので、小泉の描かれ方も含めて興味があったので見に行った。

映画についてであるが、普通に良かった。飛田をやっている柄本明はやはり名優だなと再認識。
小泉を演じていた石坂浩二は親子三代慶応ボーイであるゆえか、小泉の雰囲気を出していたように思う(もうちょっと重みがあると良かったが)。

ただ、やはりどうしても気になる点が1点ある。
それは、試合後の早慶のエール交換の後にある「海ゆかば」の合唱が省かれていたことである。

「海ゆかば」は軍歌である。映画でも最後に描かれていた明治神宮外苑競技場での学徒出陣壮行会でも歌われた。学徒出陣とは切っても切れない関係にある。
例えば、この試合が行われたときの慶応の部員であった松尾俊治がこの映画のHPに「65年の時を経て・・・」という寄稿しているが、この文章には次のように書かれている。

 「しかし試合後に起こった出来事は非常にすばらしく、また感激的なものであった。両校の学生が一緒になって、校歌、応援歌を力の限り歌いつづけた。このときどこからともなく湧き上がる「海ゆかば」の厳粛な歌声は大合唱となって球場に響き、早稲田の杜を揺るがせた。
 歌が終わると「この次は戦場で会おう」「お互いに頑張ろうぜ」と叫び合った。ともに戦場へいく仲間として励まし合う気持ちがグラウンド全体を包み込んでいた。
 「戦場へ行けば生きて帰れない。野球もこれで最後だ」という悲壮感から胸にジーンとこみ上げてくるものがあり、みんな涙を流しながら歌いつづけていた。あのときの球場全体を包んだ一体感は全く感動的で、いまでもその光景が目の前に浮かんでくる。」

「海ゆかば」の歌詞は次のようなものだ。

 海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
 山行かば 草生(くさむ)す屍
 大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
 かへりみはせじ

端的に言って天皇のために命を捨てろという歌詞である。
そして、玉砕の時のラジオ放送をするときに使われた曲でもある。→詳しくはWikipedia
しかし、一度でもあの曲を聞いたことある人なら、あの歌がいかに悲痛なメロディーを持った歌であるかわかると思う。→Youtube(音が出ます)

神山征二郎監督はある雑誌で、この「海ゆかば」を省いたことを次のように語っている。

「この歌に象徴されるような雰囲気で多くの若者が散っていきました。再び繰り返してはいけないような惨劇をいくつもやってきてしまったという思いが心の底にはありました。技術的な問題もありましたが、しかし何よりもエール交換を終えたら彼らは戦争に立っていく・・・。そうすれば語り尽くしたことになるのではないかと思ったんです。」(神山征二郎「愛があったら戦争はできない―「ラストゲーム 最後の早慶戦」に込めた想い」『女性のひろば』2008年9月号、P68)

神山監督が、この映画で反戦を主張したかったのは非常によく伝わった。
特に、人前や家族の前では「軍国の父」を演じている早稲田の学生の父親に、負けている戦争になぜ息子を捧げなければならないのかという本音を語らせるシーンは、神山監督の主張がもろに反映されている。
そして、引用した文章からも想像がつくが、神山監督はその方向性を貫くために、「軍歌」である「海ゆかば」を「消した」ということなのだろう。

でも本当に「海ゆかば」を削ることが、反戦につながるのだろうか。
私はそうは思わない。
あの歌をなぜ学徒達が歌ったのか。勇ましい曲でなく、悲しい「海ゆかば」をなぜ彼らが歌おうとしたのか。
それは、あの戦争の時代に、否応なしに流されざるをえなかった多くの学徒達の思いに重なる何かが、あの歌にはあったのではなかったのか。
表面的には「軍国主義イデオロギー」に見えるこの歌を削ることは、彼らが置かれていた時代を逆に軽く見せていないだろうか。

このことから考えることは、「戦争体験を伝える困難さ」を改めて感じるということだ。
神山監督は1941年(昭和16年)生まれ。戦前生まれとはいえ、ほとんど戦争の記憶はない世代だ。
本人は「最後の戦争世代」と語っているが、むしろ「最初の戦後世代」と言えるのではないか。
だからこそ「海ゆかば」を切れるのだろうが、その演出が逆に戦争体験を軽く見せている。

数年前に、ある高校が入試問題に沖縄のひめゆり部隊の生き残りの語り部の話が「つまらない」という内容の問題が出て、話題になったことがあった。
実際には、そのステレオタイプ化した「語り方」が「つまらない」という内容だったようだが、ただ、やはり「愛」や「体験」で平和を語っていればよいという時代ではなくなりつつあるように思う。
ならどうすれば良いのかということは、自分でも確たる答えはないが、今のところ私自身は「なぜああいう戦争を行ってしまったのか」ということを理詰めで考えることが重要なのではと思っている。
だから、私は「海ゆかば」を外すことに納得がいかないのだ。

そして戦争体験世代の思いとは裏腹に、観客には老人しか来ない。日曜の朝一に行ったからかもしれないが、自分と同世代の人はほとんど見なかった。終わった後に次回を待っている人達を見たけど、やはり同じような世代バランスだった。

せっかく、「早慶戦」という現在でもリアリティのある題材を扱っているんだがなあ。
なんというか惜しい映画だと思った。

補足
最後の早慶戦は小泉の企画ではないという話は、学生野球史を専門にする私の後輩がブログで書いているので、是非そちらを見ていただきたい。通説とは全く異なる話なので、ここまでこの記事を読んできた方には興味を引くのではないかと思います。
ふろむとーきょー「「最後の早慶戦」の小泉信三」
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