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全国の「瀬畑」さんを探す [雑感]

どうでもよいのだけど、そういえばネットで「瀬畑」さんを探したら、自分はどのくらいの順番で出てくるんだろうと思って、検索をかけてみた。
「瀬畑」という名字はかなり珍しいもので、「全国の苗字(名字)」というHPで調べてみると、6936位(327世帯)なのだそうな。
大体7000位までで全国の95%ぐらいは数えられるらしいので、やはり少ないと言えるんだろう。

さて、とりあえず、YahooとGoogleで検索してみたんだが、大体上位に来る人は同じ人達である。

・釣り師の瀬畑雄三さん
・声優の瀬畑奈津子さん
・セロテープアートを作る瀬畑亮さん
・モデルの瀬畑茉有子(まゆこ)さん

とまあこんな感じ。
雄三さんは茨城県出身。祖父母の実家に近いところなので、親戚かもしれん。
ほかは、結構地味な感じだが、茉有子さんは、準ミスユニバースとのことで、めちゃめちゃ美人。(下記のダイエット雑誌の表紙で脱いでいますが、綺麗ですな。)
しかし、読みが「せばた」ではなく、「せはた」とのこと。「せはた」と読む人は初めて見た。ということはおそらく、名字のルーツが異なるのかしらん。なんか残念(苦笑)。

ちなみに、結果からすると、Yahooでは6位。Googleでは1位にこのブログが出てきた。一応「瀬畑」さんの中ではそこそこ有名人(?)みたい。

余談だが(ここまでも余談だけどね)、ブログ検索してみると、佐竹彬氏の小説『カクレヒメ』(電撃文庫、2008年)の主人公、瀬畑明珠(めいじゅ)がでてきた。「瀬畑」って名前の主人公って初めて見た。
これも何かの縁と思って読んでみた。

・・・なんだろう。このこっぱずかしさは。
なんかやばい。基本的に主人公が「瀬畑君」と呼ばれているので、なんかこそばゆいというか、何というか。
しかし、どうしてまたこの作者は、こんな珍しい名字を使おうと思ったんだろう・・・。知り合いに瀬畑さんがいたんだろうか。

なお、Yahooのブログ検索では私は検索結果に出てこない。どうやら社会的に抹殺されているらしい(苦笑)。Googleは出るんだが。

とまあどうでもいい話でした。


名人瀬畑雄三の渓流釣り入門

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  • 出版社/メーカー: 家の光協会
  • 発売日: 2008/01
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FYTTE (フィッテ) 2008年 08月号 [雑誌]

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カクレヒメ (電撃文庫 (1615))

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読まれている記事ランキング [雑感]

本日でこのブログやHPの2周年になります。
何だか長いような短いようなという感じもします。
去年の1周年の時は、パソコンが壊れるなどのトラブルがあって何もしなかったので、自演でお祝い代わりに、今まで読まれている記事ランキングを作ってみました。
記事名の横のポイント数は「閲覧数」。その記事を目当てに来た人数です(注)。
別にもったいつけてもしょうがないので、1位から10位までを並べてみます。

[晴れ]1位 「眞子様萌え~」!―皇族の萌えキャラ化に思う(2008年3月11日)3258p

書いた当初はそれほどアクセスもなかったのに、6月に「眞子様萌え」が報道されてから一気にアクセス数がとんでもないことに。→驚いた時に書いたブログ


[やや欠け月]2位 秋篠宮紀子妃が民間病院に入院する理由(2006年8月21日)1770p

このブログを初めてから、一番初めに集中的なアクセスを記録した記事。何でこんなに来るんだろうと検索してみたら2chで好意的に紹介してくれた人がいたらしい。
結構気合い入れて書いた記事だったので嬉しかったし、これで自分が書くブログが人に読んでもらえているという実感を得た記事でもある。


[ひらめき]3位 高円宮承子女王、英国生活を楽しむ(2007年2月8日)1436p
4位 高円宮承子女王、落第する。(2008年6月27日)1081p

この二つは、最近ものすごくアクセス数を増やしている。最近、私のブログをググってやってくる人は、「眞子様」「萌え」「承子」「落第」がものすごく多い(苦笑)。
ある意味、こんな真面目なブログに色々な方が引き寄せられる広告塔みたいになってしまった。


5位 タイ・プミポン国王の権威と「クーデター慣れ」(2006年9月23日)617p

これはなぜ伸びているのかが意外。ずっと地味にアクセス数を増やしてきたもの。気合いは結構入れて書いた記事ではあるんだが。


6位 ソクーロフ監督『太陽 The Sun』(2006年8月14日)555p

初めて訴訟や情報公開以外のことを書いた記事でもあり、初めてトラックバックを貼られた記事でもある。トラックバックの意味が分からなくてあたふたしたのも今では良い思い出。


7位 乙武洋匡ブログが炎上している件について(2006年9月8日)475p

これは時事的なもの。リアルタイムに何かが起こっている時に書くと、瞬間的には伸びるんだけど、その後はあまり伸びない感じがする。


8位 日本近代史研究者占い(2006年9月17日)458p

全く気合いもなく、30分ぐらいで書いた記事なんだが、予想以上にウケてびっくりした。


9位 訴訟資料追加公開+卜部日記について(2007年4月27日)437p

おまけの部分の方の「卜部日記」で引っかかってくる人が多かった記事。分けて書けば良かったと後で後悔。ちなみに、卜部日記の読後感を書いた記事は完全に埋もれた(涙)。


10位 【連載第1回】「公文書管理の在り方等に関する有識者会議」の議事録を読む(2008年5月5日)408p

やっと本命がという感じ。今一番力を入れている連載。ベスト10に入ってとりあえず良かったという感じ。


さて、こう見ると、2年前に書いた記事が地味に伸びているなあということがわかる。
気軽に書いたものがアクセス数をたたき出したりする一方で、結構気合い入れて書いたものが埋もれるなんてこともあってへこんだりしたこともあった。

自分としては、ブログを書いている以上、色々な人に自分の文章を読んでほしいと思っているけど、真面目な記事だけでは人は来ないし、かといって軽すぎても何のために書いているのかわからなくなるし、と、どのようにバランスを取ってよいのかを悩みながら書いています。
まあこれからも、地味に大切なネタも書きながら、時には「眞子様萌え」みたいな記事も書いていきたいなあと思います。

最後に、頑張って書いたのに埋もれている記事を二つだけ紹介。

元号が先か、西暦が先か
皇位継承者の憂鬱

両方ともタイトルが悪かったかなあと思っている。
前者は、大手新聞の欄外にある年月日表記の元号と西暦の書き方の順番の変遷を書いたもの。
後者は、悠仁親王が生まれたときに、皇位継承者として育つことの大変さを、現天皇の皇太子時代を例に書いたもの。
まあ埋もれるのは、私の文章が悪いせいかもしれないが・・・・

これからもみなさま、本ブログをどうかよろしくお願いします。

注:ここで言う「閲覧数」というのは、記事ごとについているアドレスにアクセスしてきた人の数です。なので、ブックマークを貼っている方がトップページに来たりするのはカウントされていません。ちなみにそういう方は「総閲覧数」の中にカウントされています。ちなみに、現在の総閲覧数は67505です。本当に感謝いたします。
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上山田のマッカーサー [雑感]

先週末に現代史サマーセミナーに参加するために、長野県の戸倉上山田温泉に行ってきた。
早く着きすぎたので、観光でもするかという話になり、とりあえず山の方の寺に行ってみることになった。

そうしたら、マッカーサーがいた。
080802_1414~01.jpg
なんで?
しかも、蒋介石と、スリランカの大統領と、足利尊氏の像が並んでいて、全くもって意味がわからない。特に足利尊氏が時代も異なっていて、さっぱりわからん。

まわりの様子もなかなかにカオスな感じが漂っていて、何というか自然と楽しくなってくる。
寺を称しているのに、マーライオンがいたり、手抜きな作りの七福神が並んでいたりとか。

帰ってきてから調べてみると、どうやらB級観光スポットとしては、それなりに知られたところだったらしい。しかも、見なかったところにも、もっとカオスなものがあったらしい(男女和合の神社とか)。
しかも、この寺は、中央線の八王子あたりで見える不思議な五重塔のある寺(雲龍寺)の別院らしい。
詳しくはこちら→「珍寺大道場」

でも、その横には、長野県傷痍軍人会の石碑がひっそりと建っていたんだよねえ。何だか可哀想な感じがした。昔、療養所でもあったのだろうか・・・。こんなところでは落ちつかんだろうに。
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映画「靖国」を見る [雑感]

前に李纓監督の映画「靖国」の上映反対運動のおかしさについて記事を書いたときに、「見に行くしかないなあ」と書いたということもあって、見てきた。
以下感想ですが、ドキュメンタリー映画の感想なので、当たり前ですがネタバレ全開ですのでご注意下さい。
少しスペースを空けておきます。








まず思ったこと。
非常に良くできてる。
ドキュメンタリー映画は主に「自己の主張を明確にして撮る」場合と「視聴者に考えさせるような撮り方」をする場合と二つに分かれると思う(もちろん厳密に分かれるわけではない)。
この映画は明らかに「後者」を狙ったものだということがよくわかる。
そして、見終わった後に、色々と考えさせられることが多かった。友人と見に行っていたのだが、その友人もまた色々と考えさせられていたように見えた。

映画は毎年8月15日の靖国神社の様子と、「靖国刀」製作者の最後の生き残りである刈谷直治氏の映像とが交互に撮されながら進んでいく。
前者の靖国の映像を見ていて感じるのは、全てが「靖国劇場に集った出演者」なのだなということ。
そこに現れる軍服姿の人から、靖国反対運動をする人まで、全てが「演技」がかっていて、ものすごく違和感がある。
つまり、「8月15日の靖国にしか通じない文法」でみなが語っている(表現している)ような感じなのだ。

彼等は見られることに慣れている。監督もそれを良くわかって撮っている。
パンフの中の対談で、李纓監督は次のように語っている。

「靖国神社には大勢の人たちがいて、キャメラを回しているんです。面白いのは、それぞれが舞台に登場している俳優のように、無意識のうちになりきっている。カメラにも、すごく慣れているんですよ。」(P21)

私がこの靖国の祝祭的なシーンを見ているときにすぐに気づいたのは、その人達を囲むカメラを構える人の多さである。
それも明らかにプロではなく、野次馬的に撮影しようとしに来ている風な人達である。
もちろんマスコミ関係者も多数いるであろう。
8月15日の靖国は、そういった「面白いものが見れる場所」として考えられており、そこに「出演する人達」もそれに応えようとしているように感じるのだ。
そしてそれをニュースで報道するマスコミにも、またその作為につきあっている所があるように思う。(むしろ作為を「煽っている」というところか。)

監督はその作為を分かった上でおそらく撮影しているのだろうと思った。
だからこそ、この映画は後者の刈谷氏の映像が必要だったのではないだろうか。

刈谷氏の映像は、主に日本刀を制作している様子と、監督と刈谷氏との会話から成り立っている。
その中で、刈谷氏は靖国刀が戦場で使われていたことをどう考えるのかということを聞かれる。
それに対して刈谷氏は「沈黙」でもって応えるのだ。
この刈谷氏の「沈黙」がこの映画を映画たらしめていると思う。

もちろんこの沈黙は「責任逃れ」の沈黙などではないだろう。
分かった上で、それでも話せない。それが沈黙の意味であり、それは最後のシーンの詩吟「日本刀を詠ず」の歌詞の中によく現れているように感じる。
その歌詞は水戸光圀が、異国船が交易を求めてくるのに対して、それを倒すことは容易だが、そこで日本刀を簡単に抜くな、他の手段を考えよという内容である。(最後の節は「容易に汚す勿かれ日本刀」。)

本当ならば抜かずに済めば良かった。だけれども日本刀は人を切るための道具でもある。そして実際にそのために使われた。
職人はそれをわかっても作り続けることに全てをかけた。
そして、戦後は沈黙する。多くの一般兵達が沈黙をしたように。
言葉にできない文脈というのがそこにはあるのだと思う。靖国で8月15日に行われている「演技」とは全く正反対のものがそこにはある。
その刈谷氏の「沈黙」を際だたせるために、前者の靖国の祝祭的な映像があるのだと思う。
この「沈黙」を見に行くだけでも、この映画を見る価値はあると思う。


主な感想はここまでなのだが、この映画はいくつかの興味深い映像を挟み込んでいるので、その点に少しだけ触れておきたい。

一つめは、靖国の境内で星条旗を掲げた米国人が小泉首相の靖国参拝に賛成するプラカードを掲げてビラを配っていた時に起きた一連の映像である。
初めは、それに感動した老人がビラ配りを手伝ってあげたりしているのだが、次第に「星条旗を掲げるのはけしからん」と抗議する人が出始め、最後には警備員から混乱を呼ぶので片付けるようにと言われて、彼は旗を片付けさせられて落胆して帰って行くのだ。
つまり「賛成する外国人」すらも靖国は許容できない。それだけ靖国は間口を狭くしてしまっているのだ。もちろんそれが靖国支持者の総意ではないだろうが。

でも、同時に私はこのシーンを見たときに思ったのだ。「そりゃそうだろう。いくら何でも靖国で星条旗はないだろう。」と。
私は靖国とは別に、国立追悼施設を作るべきだという立場ではあるが、その自分でも(だからこそなのか?)「靖国は反米でないとおかしいだろう」と思ってしまっているわけで、その自分の感覚は面白かった。

もう一つの映像は、刈谷氏が日頃聞いている音楽はと言われて、昭和天皇の明治百年の時のスピーチのカセットテープを流すシーン。
これは監督が明確に靖国神社の戦前戦後の連続性を示そうとしているシーンであるのだが、それが昭和天皇のあの声によって、それが明確な主張というよりは、漠然とあれこれ考えさせられるシーンに変わっているのだ。
どう言ってよいのだろうか。あのテープを出してくる刈谷氏も面白いのだが、昭和天皇の声の持つ独特の堅さというのが、監督の主張を和らげているように感じる。不思議なものだと思う。

以上。
なんだかうまくまとまらないのだが、たぶんそういった映画なのだろう。私も明確にどう読むのかを今でも考えざるをえない。

ただ、やはり最後に主張しておきたい。
これを文化庁がお金を出すのをけしからんと言っている稲田議員は、一体何を見ていたのだろうか。
総体としてこの映画を見れば、どう見ても「反日」というカテゴリーでは結びつかない。
それに、「反日」映画に金を出してやるぐらいの「国家の余裕」ってのはないのだろうか。

この映画の上映が広がっていくことを期待したい。
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映画「靖国」の上映反対運動に思う [雑感]

中国人の李纓監督が撮影した映画「靖国」が、右派勢力の抗議によって各地で上映中止に追い込まれている。
今日の『朝日新聞』の朝刊によれば、反対派の人は「公開されて人が見たら反靖国派が増えると危機感を覚えた」と言って上映反対を求めているという。
もちろん、『朝日』という報道機関のバイアスは考えなければならないが、反対運動の論理はそれほど遠くないのではないか。

これを見て思うのは、「右派勢力の余裕の無さ」をつくづく感じる。
なんでもっと鷹揚に「反日映画「靖国」見てもらって結構。そんなぐらいで日本人の精神は揺らがない!」ぐらいの余裕を見せられなかったんだろうか。
前に一水会の鈴木邦男だったと思うのだが、日本の右派勢力はずっと自分たちを「少数派」だと思いこんでいて、『朝日新聞』などのマスコミに言論を封殺されているという思いを持ち続けているというのを読んだ記憶がある。
社会全体が「右寄り」などと言われる現在の日本でも、語る「文法」は以前と変わらないというということなんだろうか。

それに「綺麗なもの」しか見ないと国を愛せないとしたら、それは「悲しい愛国心」じゃあないだろうか。
もっと、中国韓国にたいして、寛容な大人の態度を見せるぐらいの余裕はないんだろうか。なんだか、こういった細かいことで抗議を繰り返す「愛国者」達は、日本を「些細なことですぐにキレるガキ」みたいに見せてないだろうか。これでは、中国の若者の反日デモと鏡の裏返しだ。
それに、いくらなんでも日本国民をバカにしすぎていないか。たかが1本の映画を見て、人の考えが洗脳されるとでも言うのか。

たぶん、勇気を持って上映を行う映画館は儲かるんじゃないかなあ。ここまで話題になれば見たいと逆に思うでしょう。
私も別に興味がなかったけど、ここまで騒がれると見に行くしかないなあ。

→見てきた
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ブログのタイトルを変えました [雑感]

新年度になったので、ブログのタイトルを変えてみました。
裁判報告用に作ったブログだったので、名前そのまんまに「瀬畑源ブログ」にしていましたが、何だか直接的すぎて前から気になっていたんです。なのでサブに下げました。

その代わりといっては何ですが、きちんとメインページを見れば私の正体がわかるように、プロフィールの部分に書き込みをしました。
というか、最近so-netがシステム変更をした関係で色々いじっているうちに、横の柱の部分の編集の仕方をやっと知ったのです。(始めて1年半経つのに・・・)

ちなみに、タイトル「源清流清」は、私の名前の由来です。
「川の流れは、水の源が清らかに澄んでいると、流れも自から清烈である様に、大もとが正しいと結果もよいということ。源清ければ流れ清し」。
元ネタは『荀子』の君道編。
母に聞いた話だと、「はじめ」という読みは決めていて、その読みにあてる漢字を人名辞典等で調べていて見つけたらしいです。
両親の願いが通じているかは何とも言えぬ不肖の息子ですが、言葉は好きなのでタイトルに使おうと思います。別に深い意味をこのブログに込めているわけではありません。

それでは今年度もよろしくお願いします。
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「人間力<効率性」の息苦しさ [雑感]

この記事が100本目です。
元は宮内庁相手の裁判の報告をするために設置したものですが、初めてみると、その時その時の皇室時事ネタや、次第に興味を持っていった公文書管理問題などについての自分の意見を書く場所としての意味合いが強いブログになってしまいました。
自分にとっては、時事的な動きに対して自分がどう考えたかを記録しておく役割でもあったと思います。

こんな硬い文章しかないブログでも、総閲覧数は3万を越え、自分の知り合い以外の方も訪れていただいているようです。
本当はもっと相互リンクを他の方に申しこんだりといった「見てもらう努力」をしなければいけないとは思うのですが、書くので今のところは精一杯です。
また、くだけた調子で書くのは、実名を晒しているだけに、やや抵抗があります。ですので、このような堅苦しい感じは変えないで行きたいと思います。

読者の皆様には本当に感謝いたします。そしてこれからもよろしくお願いします。

さて、100本目なので何か大ネタでも書こうかと思ったのですが、そういった時間もないので普段通り行きたいと思います。

『歴史学研究』2008年3月号で、「指定管理者制度と歴史学」という小特集が組まれている。
指定管理者制度とは、2003年の地方自治法の改正によって、地方自治体が管理している公的施設等を民間業者に管理を委託できる制度のことである。
小泉行革の一つとして行われたものであり、非効率な公的施設を民間の力を入れることで効率的な経営を目指すという意図とされている。
その対象となった施設には、美術館や博物館、所によっては公文書館のようなものまでが指定の対象となっている。
しかし、そもそもそういった文化関係施設を、「効率化」という物差しで見ることが果たして良いのかということが様々なところで問題となっている。

歴研に掲載された論文の内容を紹介するのは大変なので、目次だけを挙げておきます。(青木書店から市販されています。720円)

・金子淳「博物館の「危機」と歴史展示-懐かし系/ロマン系展示から見る歴史系博物館の課題―」
・上村清雄「美術館と指定管理者制度-その問題点と意義づけと-」
・赤澤春彦「文化財行政・歴史系博物館と歴史学のこれから」
・石居人也「「指定管理者制度」を読む-博物館に「制度」は何をもたらすのか-」
・小川原宏幸「韓国地方自治体における博物館行政の現在」

これらを読んですぐに思ったことは、この問題は「人間力<効率性」という現在の日本社会の縮図なのではないかということだ。
指定管理者制度は、おおよそ5年単位での契約となるので、長期的な視野に立った政策は難しくなる。
そして、そもそも美術館や博物館といったものは、短期的に評価できないものである。

その短期的な視野に立った政策で問題となるのは、「人」を育てられるのかということである。
美術館や博物館を運営するのに最も重要なのは、「モノ」よりはむしろ「人」の方である。

例えば、美術品を集めたり、企画展を開いたりするのには、「人脈」(人的なつながり)が無いと何もできない。
ルーブル美術館展を開きたいとしても、お金を積めば貸してくれるというものではない。そこで判断されるのは、受け入れる側の体制だけではなく、交渉担当者の知識に裏打ちされた熱意などが必要不可欠である。
また、資料を博物館に提供するという場合も、ほとんどの場合は「この博物館員なら大丈夫」と信用して行うケースの方が多いのではないか。

これは、別に美術館だけではないだろう。一般の企業だって同じことである。
制度はあくまでも「うつわ」にすぎない。それに魂を入れるのは「人」である。
仕事のできる「人」がいなければ、いくら制度ができても何もまわらないのだ(情報公開制度が各省庁の取組の不十分さから、きちんと機能していないように)。

指定管理者制度は、その「人」を育てない。学芸員も多くは1年雇用の非常勤であり、継続されるとしても5年後に落札業者が変わればそこでクビになるかもしれない。
『歴研』の各論文で「人を育てる」ことへの危機感が述べられており、このことを裏付ける。

そして、この「人を育てない」という状況は、今の日本社会のありとあらゆる所でおきていないだろうか。
今の企業は人を育てるというよりも、今ある「人間力」を「使い潰す」ことで回っているのではないだろうか。

人を育てず、専門知識はヘッドハンティングで能力のある人を連れてこればよいというのは、一見効率が良さそうに見える。
でも、誰かが「育て」なければ能力のある人は育たない。
だから、その能力がない人は「自己責任」という名の下に、ワーキングプアのような状況に置かれているのではないのか。

今はまだ使い潰せるだけの能力を持った人が多くいるので何とか回っている。
でも、10年20年経ったとき、日本社会は基礎力を失った社会にならないだろうか。
ある製造業に勤めている友人は、現場の技術力はおそらく10年後には崩壊しているんじゃないかということを話していた。
もちろん、全ての企業がそうではないだろう。
しかし、今の日本社会は、「合理性や効率性」を過度に追求した結果、「人間を潰してはいないか」と思うのだ。(鬱病患者の急増もそういったことと関係があるように思う。)

指定管理者制度は、確かに目的もよくわからない博物館などに危機感を持たせ、住民のために何ができるのかを考えさせる契機にはなった。
しかし、もともと「文化」は金をかけなければ維持できない。数回前のブログで書いた「映像」もしかり。
「効率性」や「合理性」という物差しだけでは測れないものなのだ。
(もちろん、評価なしに金を出せと言っているわけではない。評価方法に別のやり方があるのではないかと思うのだ。そのあたりは『歴研』論文でいくつかの論者が述べているのでそちらを参照。)

「効率性」が絶対の社会というのは、息苦しい社会だと私は思うのだが、どうなんだろうか。
もちろん、私がその「効率性」からははみ出した学問の世界で生きている人間だからこそ強く思うことではあろうが。


歴史学研究 2008年 03月号 [雑誌]

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  • 出版社/メーカー: 青木書店
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同時代史学会の参加記 [雑感]

昨年12月の同時代史学会の大会の参加記が本に載りました。
本に載る「参加記」なのだから、内容についての簡単なコメントでは済まないので頭をひねりましたが、結局無い頭では出てくるものもこんなもんだというような文章になりました。
まあ私の文章は読まんでもいいので、他の人の論文を読んでくださいませ。

しかし、後半の参加記を書いた植野真澄さんとたまたまお会いして話したときに一致したのだが、表紙に名前を書かれるのは正直はずかしい(同時代史学会の本は表紙に執筆者の名前が連記されている)。論文書いた人と同じ大きさで名前を書かんでほしいよ・・・

日本国憲法の同時代史

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  • 作者: 中北 浩爾
  • 出版社/メーカー: 日本経済評論社
  • 発売日: 2007/11
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1950年のアスキーアート [雑感]

『高知新聞』1950年1月15日の記事。国会図書館で見て、思わず笑ったのでコピー(クリックすると大きい画像が出ます)。

よく見ると、色の薄いところは、昭和天皇は「HIROHITO」、マッカーサーは「SCAP」(連合国軍最高司令官総司令部の略)でできている。
タイプライターで作ったんだろうが、いつの時代でも似たようなことを考える人はいるもんである。
(ちなみに、『徳島新聞』1950年1月17日には、これの吉田茂首相バージョンもあったりする。)

注記 大きい画像が出なかったのを修正してみました。今度は大丈夫だと思いますので、再アップをします。


伊藤之雄氏「近代天皇は「魔力」のような権力をもっているのか」について [雑感]

私が『歴史学研究』2006年10月号に書いた伊藤之雄氏の『昭和天皇と立憲君主制の崩壊』(名古屋大学出版会、2005年)への書評について、ご本人から反論をいただいた。
書評対象者から返事をもらえるということは、これほど光栄なことはない。伊藤氏には本当に感謝してもしきれない。
それが、『歴研』2007年9月号に載った上記タイトルの論文である。
詳しくは、伊藤氏に直接書くのが礼儀であろうと思うので、簡単な感想だけをここに書いておきたい。

まず、反論を『歴研』に書くことはしません。
伊藤氏は、反論があるなら「自らそれを実証するか、少なくとも具体例をあげて、拙著の元になった論文や拙著に対してコメントすべきであった」(18頁)と述べておられるので、要するに「論文で勝負してこい」ということなのだろう。

残念だったことは、私があの書評で一番強調していた「英国との比較の問題」について、結局ほとんど反論の中で触れてもらえなかったことである。
私が、真っ先に批判にあげたように(「感想として、著者の意図とは逆に、日本と英国は、君主制のあり方に決定的な違いがあるという印象を持たざるを得なかった」59頁)、私の意図はこっちにあったのだが、その途中で使った安田浩氏の文章に噛みつかれ、なんだか消化不良だった。

また、やはり安田氏の誤読から伊藤氏の議論が出発しているので、やはり噛み合っていないなあという印象がぬぐえない。私としてはそこの架橋も意図にはあったのだが、どうみても私の文才のなさから、そのようには読めない文章を書いてしまった。大いに反省する必要があると思う。

あと、イメージ論への反論は「それでいいのか?」という答えで、正直驚いた。
どうみても、伊藤氏の著書の序論を読めば、国民全体を論じているようにしか読めない。
また、もし中産階級以上に限定して論じるなら、「国民」という言葉をそのような意味で使うという定義を書く必要があったのではないか。「読者層の定義を読めば自明」(23頁)というのは、いくらなんでも乱暴すぎやしないかという感じがぬぐえない。
当然、伊藤氏の本を読んだときに、ここの文章には気づいていたのだが、まさかその言葉のみで対象を限定をしているということだとは思いもしなかった。

とりあえず、一読の感想を書きました。詳しくは伊藤氏に手紙を書いてから、その内容をアップロードするかも含めて考えます。じっくりと検討する必要もあるので、時間がかかると思いますが。

追記(2011年2月28日) 伊藤氏への手紙をアップロードしました。詳しくはこちら

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