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祖母の思い出 [雑感]

先日、母方の祖母が死去した。享年99才。いわゆる大往生と言ってよいだろう。
私的なことではあるが、少し思い出したり調べたりしたことを書き残しておきたい。

祖母は1912年(明治45年)3月に福岡県八幡で生まれた。
父親は八幡製鉄所の社員。
当時の八幡製鉄所は「官営」であるので、公務員の『職員録』を探してみると、確かに載っていた。
最後に載っていた情報を見ると、「書記、判任官2級、従七位勲六等」であったことがわかる。

判任官ということは今で言うノンキャリア。2級まで行っているということは、ノンキャリアの中では出世していたのだろう。
位階や勲章をもらっていることから、長年官吏として勤めていたのかなと思う(当時は何年か官吏として勤務すると位階勲章がもらえた)。

判任官2級の当時の給与を見ると、月額135円。
小学校教師の初任給が50円という時代なのだから、おそらく中流階級レベルの生活はできていただろう。

経済的に余裕があったからかもしれないが、親が教育熱心であったようで、祖母は学校にきちんと行くことができた。
大阪府立夕陽丘高等女学校を出て大阪府立女子師範学校に入り、専攻科まで卒業してから、小学校の先生になった。

当時の小学校は、担任を1年から持つと、持ち上がりで6年生までずっと担任を続けるようになっていたらしい。
ただ、祖母は5年勤めたときに、小学校の先輩の先生から紹介された祖父と見合いをし、結婚することになった。
その際、東京に行かなければならず、祖母は泣く泣くあと1年で卒業の児童を残して学校を退職した。

祖父は香川県琴平の出身で、東京商科大学(現一橋大学)を卒業後に三菱鉱業(のちに三菱金属、現在の三菱マテリアル)で働いていた。
鉱山関係の仕事をしていたため、香川県の直島や宮城県の細倉などを転勤した。
そして、戦争が始まり、徴兵されて中国戦線に派兵された。

以前、祖母から聞いた話によると、商大出のインテリであった祖父は軍隊が嫌いで、醤油を飲んで体調不良に見せかけるという古典的な手段で徴兵を逃れようとしたらしい。
1回目は係官が見逃してくれたらしいが、2回目は上手くいかず、結局徴兵されたらしい。(これが徴兵検査の時なのか、その後の召集の時なのかはわからない。)
敗戦時には台湾にいたために無事であった。しかも、英語がしゃべれることをアピールして通訳に名乗り出て、結構早くに引き揚げてきたらしい。

祖母は1945年の4月に、当時住んでいた東京杉並から島根県に疎開した。
その際に祖母は「ミシンだけは持っていく」と言って、ミシンを解体して荷物に詰めて持っていったという。
そしてその持っていったミシンで繕い物などをして、農家から食糧を分けてもらったという。
祖母もまた当時の女性の中ではインテリの部類であり、都会暮らしをしていたことから考えると、おそらく農作業をできるような人ではなかっただろう。
だから、ミシンを持っていくことで、食糧確保のための算段をしようとしたようなのだ。

今でもこのミシンは伯父の家に置いてある。
伯母も「こういう話を聞くとやはり捨てられなくてねえ」と話をしていた。
祖母に疎開の時の話を聞いたときに、「なかなか食糧を分けてもらえなくて辛かった」といった話をしていたので、それでも苦労したのだろうと思う。

祖父は復員後、元の企業に勤めて定年まで全うした(途中子会社に出向したようだが)。
私自身の祖父の思い出というのは、とにかく「怖い」というのが印象として残っている。
明治生まれの「家父長」という姿がまさしく合っている人であり、孫を手に抱いてあやすみたいなことすらしないような人だった(ただし同居していた内孫だけは抱いている写真が残っている)。

祖母の葬式の夜に、斎場に私といとこの二人で宿泊したとき、色々と祖父母の思い出話をした。
その際に祖父の話として出てきたことに、「ウイスキーをいつも飲んでいて、横に氷とレモンが置いてあった」ということがあった。
その話を同居していた伯父母にしたところ、祖父は酒飲みでほっておくといくらでも飲んでしまうので、祖母が安いウイスキーを買って、3つに分けて入れ直して出していたらしい。
ウイスキー自体が安物なので、レモンを搾らないとどうやらおいしくなかったらしいのだ(今で言うハイボールだが)。

祖父は晩年病に倒れたとき、医者からタバコと酒を止めるように言われたらしい。
しかし、タバコは止めたが、最後まで酒だけは止めなかったらしい。
もう70代の後半だったこともあるのだろう。好きな酒を飲み続け、肝臓の病気で亡くなった。本望だったのではないかと思う。

家父長であった祖父が亡くなったことで、祖母はそこから自由に生きるようになった。
病気の時であっても「店屋物」を取ることを許さないような祖父であったから、それまではなかなか自由に何かをできることはなかったのではないかと思う。
短歌を詠み始め、明治神宮で行われる歌会に通った。姉妹と一緒に旅行に行くようになった。

その後祖母は、何度か脳梗塞などで倒れたが、その度にリハビリで回復していった。
90を超えて倒れたときも回復し、医者に驚かれた。
火葬した後に骨を拾ったのだが、担当官の人が「99才でこの骨量の残り方はすごいですよ」と話していた。
たしかに、ふたで骨を押しつぶさないと入らないぐらいの骨が残っていた。
99まで生きて、逆縁は一人も出なかった。激動の時代を生き抜いてきて大変だったと思われるけれども、おそらく良い人生だったのではないかと思う。

死去後、葬式の手伝いで早めに伯父の家に行った。
その際に、祖母が「黄泉路への友」と書いた箱を用意していて、自分のお棺に入れてほしいものを用意し、葬式用の写真や葬儀費用まですべて一式残していたことを聞いた。
その中には、祖父の遺書や自分の短歌の歌集などが入っていた。

また、葬式用の写真は、内孫が成人式の時に「私も撮る」といって撮影したのだそうだ。
すでにこの時に80代後半であったけど、年齢よりも若く見える写真であり、着物をバチっと着て、めかしこんで撮ったのだろう。
おそらく「黄泉路への友」もこの時に一緒に用意したのではないかと伯父は推測していた。

何事も本当にしっかりとした人であった。
また、これは後から聞いた話だが、孫に対する贈り物とかも、その時の年齢の教育にふさわしいものを贈っていたらしい。
斎場で一緒に泊まったいとこも、母の出産の時に祖母の所に預けられたときには、習字を良くやらされたことを挙げていた。
祖母の原点には小学校の「先生」というものがいつまでも残っていたのだと思う。

また、以前、研究の参考になるかと思って、天皇についての話を祖母に聞きに行ったことがある。
その時に、真っ先に出た話は、小学校の教師の時に皇太子(現天皇)が生まれ、学校で「皇太子さまお生まれになった」を児童と共に歌い、旗行列をしたということだった。
そして、さらっと「日の出だ日の出に鳴った鳴ったボーボー」というフレーズを歌い始めた。
小学校教師時代の記憶は本当に鮮明だったのだなと思う。

祖母は亡くなる前に、次第に話すことが昔のことに戻っていったらしい。
介護をしていた伯母によれば、最後に聞いた言葉は「先生の言うことをちゃんと聞きなさい」だったという。
小学校の教師であったことが一番最後に残った記憶だったのだろう。
その意味でも5年間で離職しなければならなかったことは最後まで心残りだったのかもしれない。

祖母は筆まめな人で、若いときの日記など色々な物を残しているらしい。
落ち着いたら読んでみたいなと思う。

歴史研究をしていると、家族のライフヒストリーを考えることがある。
今回、祖母が亡くなってから、色々と祖父母の過去を調べてみた。
あらためて、祖父母が家族に残した文化的な遺産というものの大きさを感じざるをえない。
自分自身の立ち位置を歴史的に考える際に、こういった作業も必要だなと思った。

以上。祖母への追悼の意味も込めて。
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