SSブログ

行政学の発想、歴史学の発想 [情報公開・文書管理]

前の記事で記載したように24日に日本計画行政学会の関東支部のワークショップに参加してきました。
率直な感想としては「異分野交流は楽しい」。これに尽きると思った。
行政学と歴史学の発想の違いが非常にクリアにわかって、なるほどと思わされることが多かった。

特に、私の発想との最大の違いとなって現れたのは、「文書廃棄」をめぐる問題である。
日本計画行政学会は、その意見書「公文書管理のあり方」の中で、全文書のリアルタイムでのデジタル保存を主張されていた。
それに対し、私が「アメリカの国立公文書館でも9割のルーティンワークの文書は廃棄しているので、全て保存する必要はないのでは。」ということを意見として述べたら、ものすごい勢いで「その発想は、今の公務員の文書廃棄を正当化する可能性がある」といったような反発を受けた。
おそらく、私がコメントで「政策過程の文書保存の必要性」を話していた一方で、こういった話をしたから「なんで?」と思われたということもあるのだと思う。
その反応を受けて、「なるほど、この発想の違いは面白いな」と感じた。

日本計画行政学会は、私の見た感じだと、「現在の政策をどう評価するか」「どのような政策を立案するか」という発想をする方が中心となっており、公文書管理問題への取り組み方もそういった「現在の視点」から発想されているということがわかる。
そのため、彼らにとって重要なのは、政策を立案するための根拠となっている細かいレベルからの情報である。
また、報告者の一連の報告を聞いていた時に強く印象に残ったのは、「数年前の文書を請求したのに、規定で年限が来たから廃棄した」といった「不存在」という反応が返ってきていることに対する不満が、相当に強く意識されているのだなという感じがした。つまり、文書そのものが隠されたり廃棄されたりという実体験をした方がどうやら多かったように思う。
だから、「全ての文書を保存・公開」という発想が生まれてくる。

もちろん、この考え方は私にもわからなくはない。ただ、歴史研究者の発想は、もうちょっと長いスパンで物を考えている。会場では反論できる雰囲気ではなかったので続きを話さなかったが、その場にいた人の中にはこのブログを読んでくださっている方がいると思われるので、私の意図をきちんと書いておきたい。

アーカイブズ学の世界などではよく言われていることだが、情報は時間の経過とともに「劣化」するものである。
現在は不開示情報であるかもしれないが、時間が経過すると不開示にしている意味が薄れる情報というのがある。例えば、工事の入札に関する情報とかは、事前に公開されれば問題になるわけだから当然不開示になるが、入札が終了してしまえば公開しても問題はなくなる。
これは短いスパンだが、例えば国立公文書館の個人情報の扱う規則を見ると、50年以上経過すれば、個人の学歴や財産情報などは開示対象となる。つまり、その情報が公開されることによる不利益は、文書が作られてから50年も経過していればなくなっているという解釈である。
このように考えた時、全ての文書を50年、100年残す意味があるのかという点は問われる必要があると思う。

例えば極端な話だが、各省庁での消耗品(トイレットペーパーとでも想定してほしい)の購入にかかった領収書は、50年後に意味のある資料であると言えるだろうか。
確かに、どのように予算が使われているかという行政監視という点から見れば、予算執行5年や10年なら、それは意味のある情報だと言えるかもしれない。でもその後はおそらく誰一人としてそのような資料を見る人はいなくなるだろう。その場合、その資料はスペースを無駄に取っているということになる。

「別にデジタル化した場合はスペースも取らないし捨てる必要がないでは」ということを言う人がいるかもしれない。しかし、情報というのはただあればよいというものではない。
みなさんは、グーグルで何か用語を検索した時に、あまりにヒット数が多すぎて困ることはないだろうか。
その場合、複数のキーワードを入れたりして情報を絞るということをすると思うのだが、もしその情報の分母が膨大に過ぎれば、目的とする資料にはなかなかたどりつけなくなる。
また、複数の検索語にひっかかってくるというためには、元資料に複数のキーワード(メタデータ)が付与されていなければたどり着くことは困難となる。それを全データに付けようと思ったら、その労力は半端ではない。またキーワードを付けたとしても、その情報は膨大な量になる。データの全文検索などしたら、もっと情報が大量になって収拾がつかなくなる。
つまり、情報は過多になりすぎると、実は使い物にならなくなるという逆の現象を生むことにつながるのである。「木を隠すには森に」という言葉があるが、逆に情報隠しのために大量の「森」が作られてしまうかもしれないのだ。

だからこそ、そこに「アーキビスト」という職業の意味が出てくることになる。
アメリカで公文書を廃棄できるのは、国立公文書記録管理局(NARA)のアーキビストだけである。
彼らはどの省庁からも独立した地位を持ち、未来を見据えた資料の選別を行うのである。
そこには各省庁の恣意は入らない。
明確な基準を元に選別作業が行われるのである。そこで、不要と思われた9割の資料が廃棄されるのである。

そこで話を戻します。
日本計画行政学会の人たちが問題としていたのは、「文書廃棄を容認することが情報隠しにつながる」という考え方である。
でも、それは「現在の廃棄のやり方」だと起きうることということなのだ。
例えば、高速道路の工事費の積算根拠が5年経ったら廃棄処分になって捨てられているというのは、国土交通省の文書管理規則がおかしいのである。また、各省庁に廃棄権限があることにも問題があるということなのだ。

つまり、「廃棄」が問題なのではない。
廃棄を判断する「主体」が自省庁であるということが問題なのだ。

そもそも、積算根拠のデータをその道路が完成する前に捨てているという自体が明らかにおかしいわけである。少なくともアメリカのように第三者機関がきちんと審査をすれば、その文書は保存されるはずである。もしその省庁が、道路完成前にその文書が必要ないと判断すれば、その時こそ「中間書庫」が役に立つのだ。

ちなみに、私が「この考え方は私にもわからなくはない」と上で書いたのは、現行制度では残念ながら安直に廃棄が行われていることがわかっているからである。
ただ、それへの改善策として、歴史研究者やアーカイブズ学の人は、文書の移管廃棄を行う権限を持つ第三者機関の設立を要求することがあたりまえの発想としてある。
でも、日本計画行政学会の意見書には、この点には全く触れられておらず、「全て保存公開」という主張になるのだ。おそらく情報は全て「開示」するべきものであり、そこに選別や審査は必要ないという考え方であるためかなと思う。

私にはこの違いがものすごく面白いと思う。
日本計画行政学会の人たちにとっては、まさにリアルタイムの情報が欲しい。でも、それは色々と難癖付けられて不開示になったりする。それを打破するためには「全部出せ」という発想になるのは自然である。そして「全部保存せよ」ということも。
でも、歴史研究者にとっては、公文書館にルーティンワークの情報まで大量に移管されていても逆に使いづらくなって困るのである。むしろ第三者機関がしっかりと選別して、情報を保存して欲しいのである。

そして、この二つの主張は、実は調整可能である。つまり、リアルタイムで行政監視をするのに必要な資料はきちんと各省庁ないし中間書庫で保管し、文書の重要性に応じた年限を越えた資料は、公文書館に選別して入れればよいという話なのだ。その年限や破棄の基準は、第三者機関によって定められればよいのだ。

こういった意見のすり合わせというのは、きちんと行われないことが多い。
今回私が発表してみて思ったのは、日本計画行政学会の人は歴史学やアーカイブズ学の人の意見をほとんど知らないということ、そしてまた逆も然りということである。
おそらく、異分野の研究者が共通の認識を構築する必要性を感じた方が私を呼んでくださったのだと思う。その意味では私にとっても非常に勉強になったし、ささやかながら日本計画行政学会にも寄与できたのではないかと思っている。このような、学会横断的な「共闘」がこの問題についてはもっと行われる必要があると改めて感じた。

他の方の報告についてなど、色々と書きたいことはあるのだけど、すでに長文なので日を改めて続きを書きます。
続き
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。