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日光田母沢御用邸記念公園 [天皇関係雑感]

7月20日にアクセス70万突破しました。どうもありがとうございました。

原稿が一段落付いたので、日光へと行ってきました。
お目当ては、前から行きたくて機会をうかがっていた日光田母沢御用邸記念公園
戦前にあった御用邸の一つで、主に大正天皇の療養のために使われていたものであるが、私の研究にひきつけると、1944年7月10日から45年7月12日に皇太子時代の今上天皇が疎開していた所である。
自分の行動パターンだとすでに行っていてもおかしくなかったのだが、なぜだか機を逸していた。

行ってみると、思ったよりも広かった。
皇太子が疎開したとき、残りの学習院の同級生は金谷ホテルに収容されており、御用邸には皇太子の側近しかいなかった。だから、狭いから同級生を収容していなかったと思いこんでいた。
だが、部屋数が106もあり、皇太子が住んでいた場所は端の方の一角でしかなかった。
やはり、戦前だからそのあたりの区別は厳密だったということなんだろう。
こういった感覚は、行って見てこないとやはりわからないなあと改めて思う。

ちなみに、冬場は御用邸内で授業を行うことになったため、学習院生が通ってきていたという。
なお、1945年7月以降、奥日光湯元の南間ホテルに再疎開したため、皇太子と同級生は一緒の建物に住まざるを得なくなった。
この南間ホテルはすでに倒産しており、宿泊していた建物は栃木県の益子に移築されてレストランになっている。

さて、この田母沢御用邸、重要文化財指定を受けている建物なのだが、なかなか興味深い建物だった。
元は紀州藩江戸中屋敷の一部であったが、それを日光に移築して、その場にあった民間人の別邸にくっつけ、さらにそこから増設して最終形に至っている。
そのため、江戸末期から大正時代の建築様式がごちゃ混ぜになってる。

だから、廊下を歩いていると、時折雰囲気がふっと変わる瞬間がある。そこが継ぎ目になるわけだが、それでも良く調和が取れていて、それほど違和感はない。
ただ、和室なのにシャンデリアとか、なんだか色々と和洋折衷で面白い雰囲気があった。

残念だったのは、きちんとした解説付きの冊子が作られてなかったことか。
旧御用邸でここまでの規模で建物が残っているのは、田母沢と沼津ぐらいだと思うが、沼津は結構しっかりとした冊子を作っていて非常に参考になった。
だが、田母沢では写真集しか売ってなかった・・・
「謁見の間」の説明に、「『大正天皇実録』によれば・・・」みたいな説明文があったから、色々と資料は調べているみたいなんだがなあ・・・。勿体ない。

以下は、写真。

tamozawa01.jpg
御用邸正門。工事中なのは、震災で石積みが緩んだためらしい。どこが問題だったのかはよくわからなかった。
tamozawa02.jpg
御用邸の地図。右上の水色の部分が皇后のための区画。そこに皇太子は疎開していた。
tamozawa03.jpg
皇太子が疎開していた建物。一番奥が寝室。元から日光にあった小林邸の一部。
tamozawa04.jpg
その建物を外側から撮ったもの。
tamozawa05.jpg
その左側の続きの建物。
tamozawa06.jpg
その建物の前にあった天皇皇后による植樹(2001年)。ネットに覆われているから「引き抜いた奴でもいるんか?」とか思ったが、ただの鹿の食害対策だった。まあ枯らせるわけにはいかんということなんだろう。
tamozawa07.jpg
庭にあった防空壕。やはりどの御用邸にもきちんと作られている。
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