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宮内庁書陵部における「皇室文書」への移管問題 [2010年公文書管理問題]

昨日と今日と宮内庁書陵部で歴史公文書を閲覧してきた。
そこで、ある事実が発覚した。

私が以前、書陵部で見た「歴史公文書」が、「皇室文書」(皇室の私文書)扱いになって目録から姿を消していた。

書陵部の方からは「事実関係をもっと調べるまではできれば内密に」みたいなことを言われたけど、これは公文書管理法の根幹を揺るがす話なので、現在わかっているところまでをここに書き残しておきたい。
新たな情報が入ればその都度ブログを更新していきたい。

そもそも話は約1年前に遡る。
昨年8月末、2006年に請求していた公文書が公開された。
侍従職の「業務日誌」昭和33年である。

この文書を請求していたことは、このブログを始めてすぐに「請求を行った」と書いた記録がある。
それが3年経ってやっと公開された(一部)。

この文書が公開までに時間がかかったのには理由がある。それは「呉竹寮」の日誌だったからだ。
呉竹寮とは内親王(皇女)を育てていた場所である。子供時代の内親王の記録のため、内容がほぼ個人情報で不開示という状況があった。

実際に見れた部分はほとんど有意性のある情報がなかった。
そのままちょっとメモを取っただけで興味を失っていた。

ところが、先週ある研究会で、私のブログを見たと思われる方から、「瀬畑が見た「業務日誌」が目録に載っていないんだが・・・」という情報をいただいた。
そして書陵部の資料検索を使ってみたところ、確かに出てこない。

そこで、昨日書陵部に行ったときに、担当者の方に「どういうことなのか」聞いてみた。
その場は回答が保留されたまま、翌日も担当者の方は現れなかった。

そして夕方になって担当者の方から電話があった。

説明によれば、「その文書は、皇室の個人に関する文書であり、公文書に「紛れて」いたことがわかったので、「皇室文書」に移管して歴史公文書の目録から削除した。」という。

この説明、かなり色々なところが引っかかる。

1.「公務員」である担当官が内親王の活動を記録していたもの(しかも「業務日誌」として)が、なぜ「公文書でない」のか。
2.「公文書」に「紛れていた」ということは、その記録が作られた1958年から52年もの間「公文書」扱いされていたことは「間違いだった」とでも言うのか。
3.「皇室文書」とは皇室が持っている個人的な文書であるが、それに「公文書ではない」と認定された公務員が作った文書が含まれているのか。
4.歴史公文書の目録から削除した行為自体は、どこにも公表されていない。
5.私が資料を閲覧した昨年8月末から1年以内に、この「移管」は行われている。


1、2については言うまでもないが、これはどこからどう見ても「公文書」であることは疑いない。
複数の担当官が代わる代わる書いているものなので、私的なメモという理由も適用できない。
ちなみにこの理由で「私文書」(皇室文書)が認められるのであれば、私が情報公開請求で見てきた「東宮職日誌」「侍従職日誌」も同様に「私文書」扱いして「公文書から抹消」できることになる。

3については、今までずっと疑われていたことがついに証明されたかという感じだ。
これまで「皇室文書」の存在は知られていた。ただこれは、あくまでも天皇などが自分で作成したようないわゆる「個人的」な記録であり、公文書は含まれていないということが建前であった。もちろん目録すら公開されていない。
だが、以前から、戦前の内大臣府の公文書などが、「天皇の私的な文書」として隠されているのではないかという「噂」はずっと存在していた。

今回、「公文書」であったものが、「皇室文書」に組み込まれていたという事実が発覚したことで、宮内庁が「皇室文書」を隠れ蓑にして歴史公文書を隠している可能性が高くなった。

4については、今回のこの目録からの「削除」についてはどこにも公表されていない。
情報公開では、廃棄した場合、かならず「廃棄した」という情報が記載される。目録からデータ自体が消されることはない。
国立公文書館などの歴史公文書を保管する機関での目録に「廃棄」欄がないのは、そもそも「重要だから移管された」のだから、「廃棄」されることは想定されていないためである。

今回の行為は「廃棄」されたわけではない。だが、公文書の目録から削除するということは、公文書としては「廃棄」したと同様である。
たまたまこの「業務日誌」は見つかったが、他に同じことをしていないかどうかは確証が持てない。それに目録からデータ自体が消えているので、何が消えたかはわからない。

5は最も問題だと思っているところ。
昨年の9月以降ということは、すでに公文書管理法は公布された後である。

そもそも公文書管理法は、公文書を適切に管理し、恣意的な廃棄などを行わせないために作られた法律である。
そして、今回の書陵部の行為は、「恣意的」に「公文書」を皇室の「私文書」に切り替えたということだ。
これは、公文書管理法の精神に完全に反した行動であることは間違いない。

よく誤解されるのできちんと説明するが、私は「皇族の個人情報を出せ」みたいな話をしているのではない。
個人情報で出せないものがあるのであれば、情報公開法でも公文書管理法でも、きちんと「不開示」にできる規程がある。それを使えばよいのだ。

そして、「悪質」だなと思うところは、こういった「公文書」を皇室の「私文書」に切り替えることがどのような意味を持つのかを理解していなさそうなところだ。
今回の行為を見ていると、「この文書、皇族の私的なこと書いてあるし、「皇室文書」でいいんじゃない?」ぐらいのノリで皇室文書に切り替えたように見えるのだ。
私がかなり怒って話をしているのに、最初の方は「なんでそこまで怒る?」みたいな反応だった。言葉を尽くして話しているうちに段々と私の怒っている理由は理解してくれたみたいだが。

つまり、別に「隠そう」とかしているのではなく、ただ単に「こっちに入れておいた方が管理上いいんじゃないか?」といった内部の論理だけで、「公文書」が「公文書でない」ものにされているように見えるのだ。

だが、この差は天と地ほどの差がある。
「皇室文書」として目録から消えた文書は、一般の人からは一切アクセス不可能になる。永久にだ。
目録に残っていれば、100年後とかになれば、もう内容的には見せても大丈夫になって見れるかもしれない。
また、その資料に価値を見いだす人が現れるかもしれない。

さらに、このような「移管」を行っている以上、他の文書でも同じようなことを行う「習慣」が書陵部にはあるという疑いをもたざるをえない。

「皇室文書」はあくまでも皇族本人の個人的な資料に限るべきである。
公文書だったものを入れるのは、宮内庁が国民に対する説明責任を放棄していると言わざるを得ない。

ただ、かなりこの問題は根が深いような気がしている。
他の省庁でも、自分の省庁の図書館に、移管されたくない文書を「図書」として流しているという「噂」もあるし。

こういった問題が起きるのは、公文書が「国民のもの」であるという意識がないためである。「自省庁のもの」だと思っているためではないか。
公文書管理法の精神を根付かせる道の険しさをあらためて感じさせる。

さて、上記したことは、私が現時点で「考えた」ことを書いているだけである。
書陵部には書陵部の言い分があるだろう。それについては、後日書陵部から説明があることになっている。
説明があった場合には、きちんとブログに記載したいと思う。


追記 9/19

他の人から情報提供があって、この記事を書いたときにまだあった「業務日誌」の昭和20年と21年が、その後目録から抹消されたことがわかった。
彼らはどうやらまだ事態の深刻さがわかっていないらしい。隠蔽を図っているとしか思えない行動は、事態を悪化させることにしかつながらないと思う。

関係者はこのブログを見ていないのだろうか?まあ確かにこのブログはインターネット上の場末の記事に過ぎないが。
もし読んでいた場合、私がこの事態を公文書管理法施行後に必ず問題にするということは明白だということがわかっていないのだろうか。
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コメント 2

荒田

民主党議員に訴えるか、裁判でも起こされてみてはいかがでしょうか。
by 荒田 (2010-08-18 08:36) 

瀬畑 源(せばた はじめ)

> 荒田さま

今のところ書陵部側の論理が推測の域を出ませんので、まずは向こうの出方待ちです。
どのような論理でこのようなことになっているのか、それを向こうに語らせてからが本番だと思っています。
by 瀬畑 源(せばた はじめ) (2010-08-18 13:41) 

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