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【連載第8回】「公文書管理の在り方等に関する有識者会議」の議事録を読む [【連載】公文書有識者会議]

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「公文書管理の在り方等に関する有識者会議」の議事録の解説の続きです。
ですが、上記しているとおり、すでに「中間報告」の解説をしてしまっているので、第6回から8回は気になったところだけをテーマ別にピックアップして書いていこうと思います。

今回は前回の続きです。
細かいネタをいくつか。

まず、中間報告の題名「「時を貫く記録としての公文書管理の在り方」~今、国家事業として取り組む~」の由来について。
この表題を考えたのは、上川陽子公文書管理担当相である。
上川担当相によれば、論語の「吾が道は一以て之を貫く」から取ったという。
折角なので解説を引用。

「今日の中間報告の公文書の意義というところにも、民主主義の基本として、これを国のある意味では背骨の部分の役割として位置づけていくということが大切であるということ、そしてそれを、過去・現在・未来という、人の営みは1つの収束があるわけでありますが、国としての営みは脈々と続いていくものであるし、その中で、記録というものが大変大きな役割を果たすものであるという、そういう趣旨で、時を貫く記録ということ。そして、そのものが公文書であるということ。そして、これを今、国の事業として、その管理の在り方についても、ベストなものを目指しながら努力を重ねていくということが大切ではないかと、そういう思いでご提案をさせていただいているものでございます。」(第8回議事録7-8頁)

委員達も一様に感心していたが、私も正直「やるな」という感じだった。
私は就任当初は、上川氏で本当に大丈夫かと不安に思っていたわけだが、意外とやるというのが率直な感想だ。
内閣改造をするのかどうかわからないが、公文書政策の方には水を得た魚みたいな感じになっているので、このまま上川担当相には頑張ってほしいと思う。(少子化担当相の方は全く顔が見えないが。)

ちなみに本当に余談だが、この論語の言葉の続きは「夫子の道は忠恕のみ」って続くんだが、これは私の研究対象でもある小泉信三が大好きな言葉で、現天皇も小泉の影響から「忠恕」という言葉が一番好きであるということを記者会見で語っていたことがある。こんな所でつながってくるのかと不思議な気がした。

さて、次には大きな話では全くないのだが、前にも取り上げた戸井田みのる内閣府政務官に関する話である。
戸井田政務官は第8回の会議で、中間報告の冒頭の部分に、米国に日本の公文書が接収された=歴史を引っかき回されたということを、もっと強調するべきだと主張した。
さすがにまわりからたしなめられていたが。

この話は、接収文書の行方の問題と絡んでいる。
米国は、東京裁判との関係などもあり、進駐直後に大量の公文書を押収した。
押収された文書は、その後、米国国立公文書館と議会図書館に移された。
そして、1950年代半ばになり、日本は米国の友好国であったために、陸海軍文書が返還された。
しかし、分散していて全体像が明確でなかったので全てが返還されておらず、さらに米国の安全保障に関する文書などは返還されなかった。
そのために、歴史学研究会などが中心となって残りの文書の返還運動が起き、1970年代になってやっと内務省文書などが返還されたのである。(これでも全部ではないと言われている。)→経緯については国会図書館の説明が詳しい。

戸井田政務官は、全て返さなかった米国を責めている。これは正しいと思う。
ただし、彼は「返ってきた文書はどうなったのか」ということに目が行っていない。
1958年に防衛庁に返却された陸海軍文書は、その後長らく研究者も閲覧できなかった。そして現在でも全てが公開されていないと言われている(有名なのは731部隊の文書)。
米国側はその事態を予め想定しており、重要な文書はマイクロ化して自分たちで保存するだけでなく、その複製を日本の国会図書館に無償で寄贈したのである。
つまり、結局は米国のアーカイブズの機転などによって、文書が残ったり公開されたりしたのである。
おそらく内務省警保局の文書などは、米軍に押収されていなかったら、内務省解体と同時に闇に葬られていたことだろう。
また、歴研などが文書返還運動をしていたときに、当時の首相佐藤栄作は「コピーじゃダメなのか」と言ったという話を誰かが書いていたのを読んだことがある。
それぐらい、日本は公文書を残すということを軽視していたのである。

でも、戸井田政務官が、もっとこの公文書改革が重要なんだということをアピールしたいんだということを頑張って主張していたことには共感する部分が多い。

最後に、宮内庁書陵部の問題を取り上げておきたい。(外交史料館もこれに準じる。)
すでに第2回の会議の時に、高橋伸子氏が国立公文書館に移管していない宮内庁や外務省、防衛省などの問題は取り上げてくれており、私もそのことを絶賛したブログを書いた
その後全く話が出てこなかったのだが、第7回になって、宇賀克也氏が、現在の情報公開法では開示内容に不服があった場合に第三者機関である情報公開・個人情報保護審査会に訴えることができることを紹介し、それに準じるシステムが国立公文書館には存在するが宮内庁書陵部には存在しないことを指摘した。
つまり、現在では書陵部で不開示とされたものについては、どうしようもないのである。

私は最近書陵部で資料を見ることが多くなっているので良くわかるが、そもそも審査にものすごく時間がかかるし、不開示の方法も「袋とじ」なので、前後の本当は見ても問題ないはずの情報までもが見れなくなっている。
これは、不服審査を申し立てる機関があれば、絶対に申し立てを行うところであるのだが、現状では裁判をやる以外には手を打ちようがない。
私としても、そこまでするのかという感じもして我慢している。

宇賀氏がここで言っているのは、国立公文書館と同様の公文書管理施設である宮内庁書陵部に、同じようなシステムを整備するべきだと主張されているのである。
そして、それを上回ることを言ってくださったのが、加藤陽子氏である。
長いのですが、私には感動的なので、全文引用。(なお19ページと言っているのは、第8回の資料1のこと。)

「6の19ページの真ん中辺ですが、公文書を保存・利用する機関についてのところで、たしか高橋委員から、宮内庁書陵部についてなどを言及されたことでこれが入っていて、非常に私は結構なことだと思いますが、政府として「統一的に管理する」という発想を入れた方がよいのではないか。つまり、宮内庁などに対しては、情報公開法でも公文書館法でも除外して持っていていいよという規定になっているのですが、例えば独立行政法人化した国立公文書館が非常にがんばって、受け入れ後11か月以内で公開するような慣行が、今のところできているわけですね。最大11か月と。ですから、このいわゆる適用除外機関でも、文書そのものは保管していてもいいですよ、だけれども、メタ管理というんでしょうか、こちらが、公文書管理機関が、宮内庁書陵部は本当に11か月以内で公開しているかどうか、外務省外交史料館が同じ基準で公開しているかどうかというのを、やはり全体として目配りできますよということは、この19ページの真ん中の部分で含意されていていいと思います。
 やはり1945年以外は原則移管すると言いながら、宮内庁などには、ずいぶん内大臣府関係の重要な、軍が上げたような上奏書類などがあるわけですね。これは、日本の国や天皇の役割というものをきちっと説明するためにも、むしろどんどん公開したほうが、私はいいと思っておりますので、この宮内庁書陵部などについての全体的な統一的な管理というのは、非常に大事だというところでコメントさせていただきたいと思います。」(第8回議事録21-22頁)

加藤先生(涙)。
まだ一度もお会いしたことはないですが、何というか私の言いたいことを存分に言ってくださったという感じがする。
やはり、こういう会議に歴史学者がいるだけで、全然違うということは本当に良くわかった。

中間報告でも検討課題に入っていたが、外務省外交史料館と宮内庁書陵部は今のところ特別扱いがなされている。
でも、この二つの機関は、各省庁の「内局」である。だから、根本的には各部局が、史料を引き渡すか否か、公開するか否かの決定権を持っているのだ。
これは、現在の各省庁と国立公文書館の関係と同じというか、もっと状況が悪い。
もし公文書管理機関が、移管についての大幅な権限を持つような改革をするのであれば、この2つの史料保存機関をどうするかは重要である。
この2省庁だけが特別扱いされた場合、他の省庁が新設される公文書管理機関にどこまで従う気になるのか、危うくなると思われる。

以上で解説はおしまいです。
8月1日から、後半戦がスタートするようです。たぶんまた何回かまとまった時に書くと思います。
最終報告は10月に出る予定。
どうもお読みいただきありがとうございました。

後半戦の第9回はこちら
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